2026年4月2日

【湖北史記 其の9】「東」もあった黒田の話

 前回、「郷里」を考えるのに、「擬制荘園」の話をした。中世の荘園ではなく、江戸時代の数ヶ村を含む中域地名として成立したものだった。実は「西黒田」も、この「擬制荘園」を基にして命名された明治の新村名である。今も「まちセン」の名前などで馴染み深い。

 江戸時代後期の地誌『淡海木間攫(おうみこまざらえ)』(以下、『木間攫』)によれば、旧山東町の東黒田地域(本郷など)と現在の西黒田地域に横山丘陵をまたがって「黒田荘(くろだのしょう)」という荘園があったと記す。確かに、かつての山東側の本郷付近は、中世において「黒田郷」と呼ばれたと見られ、明治22年(1889)には「東黒田村」が成立している。現在の米原市北方(きたがた)は、「黒田郷」の「北方(ほっぽう)」の意味である。

 ただ、「黒田郷」はあっても、「黒田荘」はなかった。現在、「東黒田」の地名は、長岡の「東黒田警察官駐在所」以外残らないが、米原市立大東中学校はその名残と言える。昭和22年(1947)に新制中学として創立した時は、東黒田村立黒田中学校と言った。翌々年に大原村立大原中学校と合併、「大」と「東」の文字をとって今の校名となった。

 一方、山西部の西黒田地域では、名越・常喜・本庄・鳥羽上の各村が「黒田荘」に含まれると『木間攫』は記す。しかし、実際に中世においてこの地にあった荘園は、鳥羽上荘(とばかみのしょう)や常喜本荘で「黒田荘」はなかった。鳥羽上荘は、後鳥羽上皇の御影堂(みえどう。現在、大阪府島本町にある水無瀬(みなせ)神宮)の所領だったのでこの名がある。

 西黒田地域の布施(布勢)・小一条の両村は、『木間攫』では「押延ノ庄」に含まれるとするが、「忍海荘(おしのべしょう)」の字が正しい。「忍海」は現在奈良県葛城市(かつらぎし)に同名の地名「忍海(おしみ)」があるが、古代に製鉄技術を持って朝鮮から来た渡来人の集住地を指すと見られる。なお、この二ヶ村を明治8年(1875)から昭和18年(1943)まで「薗原(そのはら)」と言ったが、語源はよく分からない。

 さらに付言すれば、西黒田地域の八条村を、『木間攫』では「郷里ノ荘」に入れている。正しくは福能部荘(ふくのべのしょう)の一部だから、「黒田荘」域に入れないという点については合っている。この福能部荘という荘園は、現在の七条・八条・石田・今川の各町を含んだが、現在地名に片鱗すら残らない。「福能部」は、おそらく領主が一方的につけた瑞祥地名、つまりキラキラ地名。その典型である藤原定家の荘園「吉富荘(現在の彦根市鳥居本町付近)」が定着しなかったように、住民に受け入れられなかった荘園名なのだろう。

 

西黒田尋常高等小学校の跡地石柱

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2022年7月7日掲載)

2026年4月2日

【湖北史記 其の8】江戸時代の荘園の話 ~北郷里と南郷里~

 荘園は、秀吉以前の中世の土地制度だが、秀吉の後の江戸時代に出来た荘園がある。もちろん、本当の荘園ではなく、江戸時代の数ヶ村を含む中域地名として成立したもので、これを私は「擬制荘園」と呼んでいる。教科書に載っていない歴史の一コマである。この「擬制荘園」名を基(もと)に命名された明治の新村名が、北郷里・南郷里の両村で、今も「まちセン」や小学校の名前などで馴染み深い。

 江戸時代後期の地誌『淡海木間攫(こまざらえ)』(以下、『木間攫』)によれば、「郷里ノ庄」は今川・八条・七条・石田・小屋(石田町の一部)・堀部・保田(保多)・垣籠・春近・東上坂・西上坂・榎木・加納・小足・南小足の各村の領域だったとする。「小足」に南北の記載はないが、明治12年(1879)に北田附村と合併して新栄村となった北小足村のことであろう。「郷里」の語源は、「郡(こおり)」と言うが定かでない。

 確かに江戸時代の用水関係の古文書を見ると「郷里六ヶ村」という地名が登場するが、中世はこの地域に上坂郷(「郷」も荘園の一種)・榎木加納荘・福能部荘(ふくのべのしょう。七条・八条・今川・石田の各町)・山室保(やまむろのほ。石田町の坂下部分、「保」も荘園の一種)などが存在し、「郷里荘」という荘園は存在しなかった。

 なお、『木間攫』では、南郷里地域である南田附村を「平方ノ庄」、小堀村を「楞厳院ノ庄(りょうごんいんのしょう)」に分類しているが、両村は正しくは平方荘上郷と称した。さらに、『木間攫』では宮川村・下司村(明治7(1874)年に両村が合併して宮司村となる)を「楞厳院ノ庄」とする。すなわち、「六荘」の一つであった比叡山楞厳院領坂田荘のことである。これは正しいが、この楞厳院荘を挟んで、小堀町・南田附町の平方荘上郷と、平方町付近の平方荘下郷とが分かれていたことになる。

 話が複雑になったが、要は北郷里・南郷里の地名は、中世には存在しなかった江戸時代の「擬制荘園」である「郷里荘」を基にしていることだ。ただ、江戸時代には南北の区別はないので、明治の町村制施行時の区分けである。

 江戸時代は、郡名と村名の間の中域を指す地名がなかった。たとえば、坂田郡東上坂村となる。坂田郡は伊吹山から琵琶湖まで広いので、どの辺りか見当がつかない。「擬制荘園」はその不便さを解消するため、江戸時代の住民の間で、中域地名として自然に生まれたものであり、地域の歴史を表わすものである。「擬制」だからと言って、決してあなどってはならない。

 

校名プレートが掲げられた北郷里小学校の門柱

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2022年6月24日掲載)

2026年4月2日

【湖北史記 其の7】「六荘」には六つ荘園があったか

 地名の話の続きで「六荘」を考える。現在も「六荘まちづくりセンター」や「六荘認定こども園」の公共施設名が残り、市民には馴染み深い地域名だろう。この地名は、明治22年(1889)の町村制施行によって成立した六荘村が基(もと)である。

 「六荘」の語源について『滋賀県市町村沿革史』は、中世において①下坂荘(しもさかのしょう)②加田荘③八幡荘(はちまんのしょう)④平方荘⑤坂田荘⑥楞厳院荘(りょうごんいんのしょう)の「六つの荘園」があったからとする。荘園はもともと中央の寺社や貴族などが所有・管理する広域の経営体であったが、室町後期にはその領有権が失われ、単なる地名となっていた。「六つの荘園」という場合も、地名としての荘園と思った方が分かりやすい。

 ①下坂荘の区域は、大戌亥・下坂浜・高橋・下坂中・永久寺の各町。②加田荘は、南北朝期に下坂荘から分立した荘園で、加田・寺田・田村からなる。今回の話とは無縁だが、加田今町は朝妻荘(米原市宇賀野・長沢周辺)に属した。加田町と加田今町の間に「庄堺」という小字(こあざ)があるのは、加田荘と朝妻荘の堺(荘堺)の意味である。

 ③八幡荘はもともと、石清水八幡宮領細江荘と言ったが、南北朝期から八幡荘と呼ばれるようになる。現在の長浜曳山祭で、御旅所からの神輿(みこし)の還御(かんぎょ)を担当する「七郷(しちごう)」の区域である。したがって、六荘地域では八幡東と南高田の両町が含まれる。④平方荘は、もともと比叡山領細江荘と称した。上郷(かみのごう)と下郷があったが、後者は現在の平方・地福寺の両町に当たる。

 最後に⑤坂田荘は比叡山楞厳院領で、南郷里地域の宮司町などが中心だが、六荘地域では、室・大辰巳・四ツ塚・勝の各町がこの荘園に含まれる。後に領主の名を取って⑥楞厳院荘と呼ばれた。つまり、⑤坂田荘と⑥楞厳院荘は同一荘園の異名なのであるが、命名当時はその認識がなかった。

 明治の町村制の施行の段階で、当地の人々が中世の荘園にこだわったのは、滋賀県当局が荘園名など、歴史的地名を重視して新町村名をつけるよう指導していたからである。荘園の一部が含まれれば、地域内の荘園と見なし、「六つの荘園があった村」という新村名を創出したことになる。

 ⑤坂田荘と⑥楞厳院荘が同一荘園なら「六荘」ならぬ「五荘」になる。少し困った。③八幡荘と④平方荘は、もともと細江荘と言ったので、この細江荘を加算すると「七荘」になる。これも困る。間を取って「六荘」で問題なしと結論しておこう。

 

六荘認定こども園

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2022年6月14日掲載)

2026年4月2日

AI時代の研究者へ

長浜バイオ大入学式、180人決意

 長浜バイオ大学の入学式が1日行われた。バイオサイエンス学部に139人が入学、大学院は博士前期課程に39人、後期課程に2人が進学し、新たな一歩を踏み出した。

 式典で伊藤正恵学長は、バイオサイエンスとバイオテクノロジーの進展やAIの活用に触れ、「確かな知識と技術を身につけ、AIを思考や発見を支える道具として活用できる研究者へと成長してほしい」などと式辞を述べた。

 新入生代表の寺西桃花さん(18)=守山高校出身=は、世界にはいまだ治療が難しい病気があることや、人口増加による食料不足、地球温暖化に伴う森林減少や砂漠化などの課題に触れ、これらの解決に向けたバイオサイエンスの可能性を示した。その上で、「バイオサイエンスの未来を担う人材として成長し、期待に応えられるよう志高く学びの道を着実に歩む」と決意を語った。

 大学院入学生を代表して宣誓した大村真弘さん(25)は「これまで培ってきた知識や経験を基盤に、より発展的な研究活動に取り組めることをうれしく思う。院生として常に学び続ける姿勢を持ち、努力を惜しまず研究活動に励みたい」と述べた。

 仁連孝昭理事長は祝辞で「高校までの学びは教えられることが中心だったが、大学では自ら問いを立て、主体的に学ぶことが求められる」と述べ、「学びは正解を見つけることではない。失敗を重ねながら好奇心を持って挑戦し、学問的な知見を身につけてほしい」と呼びかけた。

2026年4月2日

八幡宮トイレ一新、洋式化で快適性向上

多言語案内も整備、訪日客にも対応

 長浜八幡宮境内にある屋外トイレが改修され、3月28日、完成奉告祭が執り行われた。案内板も神社らしいデザインに一新され、外国人観光客にも配慮した環境が整った。

 改修では和式トイレをすべて洋式に変更し、温水洗浄機能付き便座を設置。新たに窓や扉を設け、壁や床も改修するなど、衛生面や快適性が大きく向上した。

 注目されるのが、入口に設けられた案内板。神官や巫女装束の男女のイラストをあしらい、「厠」と表現するなど神社の雰囲気に合わせたデザインとした。英語やポルトガル語、韓国語、中国語も併記し、訪日客にも分かりやすくなっている。

 従来のトイレは和式のみで老朽化が進み、曳山まつりの際には観光客から不評の声もあった。今回は長浜曳山祭總當番が補助金制度を活用するなどして改修を後押しした。

 三家邦明宮司は「皆さまのお力添えで完成した。境内らしいデザインでもあり、美しく使ってもらえれば」と話し、總當番の家森裕雄委員長は「まつりを行う側も見る側も満足できる環境が整った。八幡宮の大神様も喜んで下さると思う」と語った。

 利用時間は午前9時から午後4時まで。

 

2026年4月1日

自由な発想、墨で表現

伊吹高書道部が書展 慶雲館

 慶雲館で3月31日、伊吹高校書道部の第15回書展が始まった。今春の卒業生4人を含む部員15人が手がけた53点が並び、既成概念にとらわれない多彩な表現で来場者の目を引いている。

 同部は「書の甲子園」として知られる国際高校生選抜書展で5年連続9回目となる団体近畿地区優勝を果たすなど、全国レベルで活躍。安芸全国書展や近江神宮全国献書大会でも優秀な成績を収めており、書道パフォーマンスやワークショップにも積極的に取り組んでいる。

 会場には各種展覧会の入賞・入選作に加え、本展に向けた新作を展示。「墨人は爆発だ」をテーマに、ろうやボンドなど異素材を取り入れた作品や、絵画的表現を取り入れた意欲作が並ぶ。

 澤愛華さん(新3年)の作品「君に届け」は、韓国のアイドルグループ「BTS」の楽曲の歌詞を書いた作品。墨にボンドやすすを混ぜて粘度を調整し、余白を生かした構成の中に、にじみの表情を加えた。

 三原サエさん(新3年)の「爆裂愛している」は、ボーカルダンスグループ「M!LK」の楽曲を題材に、色鮮やかな絵の具を多用。「Fever time」の文字を蝋書きして縁取りで強調するなど、視覚的なインパクトを追求した。

 澤さんは「それぞれが自由な発想で制作した。書道に親しみのない人でも楽しめる展示になっている」と来場を呼びかけている。

 5日まで。午前9時から午後5時(最終日は午後3時まで)。4日午前11時からは書道パフォーマンスも行う。

 

 

2026年4月1日

長浜バイオ大学が案内誌作成

「長浜ならでは」の研究を発信

 長浜バイオ大学は、2027年度入学希望者向けの大学案内パンフレットを作成した。

 パンフレットでは、地域の特色を生かした「長浜ならでは」の研究を紹介している。天然酵母を使った酒造りや学内での養蜂に加え、尾上地域に伝わる伝承野菜「尾上菜」のおいしさと栄養価値を高めたハイブリッド新品種「尾上菜さいさい」の開発など、地域資源を活用した取り組みを掲載。さらに、伊吹山麓の伝統文化を継承する伊吹もぐさ復活プロジェクトも取り上げている。

 このほか、絶滅危惧種ヤマトサンショウウオのDNA解析による生態系保全や、琵琶湖固有種ビワマスの飼料開発など、環境や生物資源に関わる研究も紹介し、地域課題の解決に貢献する姿勢を示している。

 学部構成は「フロンティアバイオサイエンス」「バイオデータサイエンス」「アニマルバイオサイエンス」など1学部3学科1コース。それぞれの学習・研究内容をはじめ、豊富な実験・実習、コンピュータを活用した情報教育など同大の学びの特長を解説している。

 また、生体物質の構造を分子レベルで解析できる核磁気共鳴装置など最先端研究機器を紹介。学習や就職、生活面のサポート体制、卒業生の進路やインタビューも掲載し、大学生活の全体像が分かる内容となっている。

 「数字が語る長浜バイオ大学の実力」のコーナーでは、授業満足度93・5%、設備満足度97・9%、大学院進学率全国7位(私立大学理学部)、研究成果の特許取得32件、女子学生比率33・7%、実験動物1級技術者資格合格者73人などを紹介。教員1人当たりの科研費は2001年度以降に設立された大学で全国1位としている。

 冊子はA4判54ページ。大学で配布しているほか、ホームページからも資料請求できる。

2026年3月31日

南風さん「ストリート講談」開幕

曳山博物館広場で週末披露

 講談師の旭堂南風さんによる「長浜ストリート講談」が28日、曳山博物館広場で始まった。

 NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の放送と北近江豊臣博覧会の開催に合わせ、南風さんが独自に取り組む企画。観光客らに地域の歴史文化の魅力を伝えようと、週末を中心に月4回程度開催する。観覧は無料の投げ銭制。

 初日は、羽柴秀吉と秀長による長浜城築城や城下町整備の過程を題材に、張りのある語りで物語を紡いだ。今浜から長浜への改称の経緯や曳山まつりの起源に加え、浅井家滅亡後に秀長の計らいで旧家臣らを取り込み、まちづくりに生かした経緯にも触れ、地域の歴史的背景を立体的に描き出した。語りの合間には来場者に語りかける場面や、人物の心情を言い換えて示す場面もあり、物語への理解を促した。

 南風さんは大津市在住。「県内在住唯一の講談師」として売り出し、滋賀の歴史を分かりやすく伝える活動に尽力。2024年には大河ドラマ「光る君へ」に合わせ、石山寺門前で640回の講談を重ね、大津市から文化奨励賞を受賞している。

 南風さんは「いよいよストリート講談が始まった。地元の方はもとより、観光で訪れた皆さんの楽しい思い出となるよう、おもてなしの心と気合を入れて頑張りたい」と話している。

2026年3月30日

小学生コンビ、三番叟で共演

三味線・岸縄さん、役者・内堀さん

 長浜曳山まつり(4月13〜16日)の子ども歌舞伎の開幕を告げる「三番叟」で、米原市立大原小5年(新6年生)の岸縄律さんが三味線奏者を務める。長浜曳山まつりで小学生が三味線を担当するのは初めてとみられ、最年少での大役に挑む。

 岸縄さんは幼い頃から、まつりのしゃぎりの笛の音に親しみ、小学2年生で演奏を始めた。4年生の時には子ども歌舞伎役者として月宮殿の舞台に立つなど、曳山文化に触れてきた。

 昨年6月からは三役(振付、太夫、三味線)を育成する三役修業塾に入塾。週2〜3回の稽古を重ね、力を磨いてきた。本番では、中学生時代に三番叟の三味線を担当した豊澤和賀さん(26)=本名・中川凌さん=と連れ弾きで出演し、舞台を支える。

 一方、三番叟役者は2月の矢籤神事で選ばれた内堀琳太さん(びわ南小3年=新4年生)。曳山博物館のワークルームで稽古に励み、「鈴を手に取って舞うところが難しい。本番では驚いてもらえる踊りを見せたい」と意気込む。

 29日には2人がそろって稽古に臨み、三味線の音に合わせて動きを確認。岸縄さんは「間の取り方が難しいが、賑やかな演奏で舞台を盛り上げたい」と話し、内堀さんも「緊張するけど楽しみ。友達も見に来る」と本番を心待ちにしている。

 長浜曳山まつりは来週4月9日からまつりの成功や役者の健康などを祈願する「裸参り」が始まる。

 

 

2026年3月27日

【湖北史記 其の6】地名の話  「加田」か「神田」か

 前回に少し触れたが、今回は「加田(かだ)」と「神田(かんだ)」の違いの話をしたい。江戸時代を通して現在の長浜市加田(かだ)町・加田今町は、「加田」と表記されていた。遡って中世には、加田荘という荘園もあった。では、いつから神田(かんだ)パーキングエリアや神田まちづくりセンターでお馴染みな「神田」の地名が登場したのか。

 明治22年(1889)の町村制施行段階で、加田・加田今の大字(おおあざ)は、現在の米原市宇賀野や長沢と同じく法性寺村(ほうしょうじむら)に編成された。しかし、明治30年(1897)になって、この2字は法性寺村から独立、神田村となった。これが、「神田」の字が使われた最初と考えられる。加田・加田今に音が通じ、しかもどちらかに重きをおいた感じではないことを理由に、「神田」の村名が選択されたという。以後、両大字(両町)を総称する地名として、現在まで「神田」の地名が使われてきた。

 ただ、気になることがある、「加田」は「かだ」と読み、「神田」は「かんだ」と読む。これで、音が通じると言えるのだろうか?この疑問に答える文書が2通ある。一通は加田町の旧家に伝来した柴田勝家禁制で、賤ヶ岳合戦時の天正11年(1583)4月に、陣取・放火、それに木の伐採をしないと表明した文書である。宛名(あてな)は「菅田郷」とある。もう一通は、天正13年(1585)閏8月22日に、豊臣秀吉が佐和山城主の堀尾吉晴へ宛てた朱印状である。そこには、吉晴に預けられた秀吉直轄領(ちょっかつりょう)の場所として、朝妻・常喜などと並んで「かん田」の地名が見える。

 この「菅田」も「かん田」も加田村・加田今村を指すことは容易に推察されるが、これらの表記からすれば、戦国時代には「加田」は「かんだ」と発音していたのではないか。実は、寛政4年(1792)に編まれた地誌『淡海木間攫(おうみこまざらえ)』にも、「加田」と書いて「かんだ」と唱えてきたとある。つまり、中世の加田荘、近世の加田両村とも、「加田」と書いて「かんだ」と発音していた可能性が高い。

 中世・近世から「加田」を「かんだ」と読んでいた地域住民にとっては、「神田」は音も通じ、「神の田」で目出度い「神照」と同様な瑞祥(ずいしょう)地名で歓迎すべき命名だった。であれば、現在の「加田」の町名も、「かんだちょう」・「かんだいまちょう」と発音した方がいいのかもしれない。ただ、「そんな急に」という話なので、神田パーキングエリアに駐車した折などに、この話を思い出して頂ければと思う。

 

神田パーキングエリア(下り)銘板

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2022年6月2日掲載)

2026年3月27日

【湖北史記 其の5】「神照」はなぜ「かみてる」と読むか

 昨年の長浜小学校に続き、神照(かみてる)小学校が来年2月1日で創立150周年を迎えるという。その記念事業の準備も始まっている。そんな中、神照小学校の校名の由来を質問された。

 そもそも、いつから150年かと言えば、明治6年(1873)2月1日、神照小学校区内の国友村に郁文(いくぶん)学校が出来たのを起源とする。その後、神照地域にできた他の4つの小学校と統合し、明治19年(1886)11月に尋常科国友小学校となった。さらに、明治22年(1889)4月1日の神照(かみてる)村の成立によって尋常科神照小学校となる。その後、現在地に移転し神照尋常高等小学校と校名を変え、戦後に神照小学校となった。

 つまり、神照小学校の名前の由来は神照村なのである。だから、校名の由来は、村名の由緒を紐解(ひもと)かないと分からない。神照村は、明治22年の町村制施行により、長浜町や坂田郡内の他の15ヶ村と共に成立した。この町村は単なる行政区域ではなく、町長や村議会がある行政組織であった。この神照村は長浜市に統合される昭和18年(1943)まで存続する。

 『滋賀県市町村沿革史』第4巻によれば、神照の「新村名の由来は、神照寺にちなんでいる」とある。さらに、「この寺は、新村の中心(新庄寺村)に位置し、平安時代以来栄えてきた真言宗の名刹で、広い境内と多くの文化財を有し、この地域の蹟勝地となっている。ゆえに、この寺の名の神照の二字をとって新村名としたのである」とある。「蹟勝地」なる言葉はあまり使わないが、「史蹟」と「名勝」の魅力を合わせ持つという意味だろう。

 このように、神照村の由来は神照寺であるとすると、なぜ「神照」を寺の名前と同じく「じんしょう」と読まないのか。ここからは私の推測だが、寺名と同じく「じんしょうむら」と読んでも、漢字の音ばかりで馴染みがたい。一方、「かみてるむら」と読めば、「神が照らす村」となる。これは、縁起がいい。瑞祥(ずいしょう)地名と呼ばれ、多くの人に支持されたと考える。

 明治の合併における、市内の瑞祥地名の事例としては神田村などがある。「加田」ではなく「神の田」を選択した。県内では豊郷(とよさと)村が典型。最近、地名の本『北近江地名考』を世に問うた。一つ一つの地名からは、土地に刻まれた歴史が読み取れる。我々はその起源や変遷にこだわりを持つべきとの論を展開している。150周年を機に、校名・地名のみでなく、その背景にある歴史も大切にしたい。

校名プレートが掲げられた門柱と神照小学校正面

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2022年5月26日掲載)

2026年3月27日

香水さん 地元で野球塾開校へ

独立LでMVP、4月から本格指導

 プロ野球独立リーグで投手3冠などに輝いた長浜市川道町出身の香水晴貴さん(26)が4月から、湖北地域を拠点に野球塾を本格開校する。これまでの選手経験を生かし、少人数制のきめ細かな指導で地域の競技力向上と野球の普及を目指す。

 香水さんは中学生時代に「湖北ボーイズ」で頭角を現し、ボーイズ滋賀県選抜、日本代表として世界大会優勝を経験。近江高校では2年時に県大会優勝で夏の甲子園に出場したが、けがでベンチ入りはかなわなかった。3年時は投打で活躍し県大会準優勝、近畿大会出場に導いた。

 びわこ成蹊スポーツ大学、社会人チームを経て独立リーグ「石川ミリオンスターズ」に入団。2024年にはリーグ優勝に貢献し、最優秀選手賞(MVP)、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振の投手3冠に輝いた。

 輝かしい成績を残した同年、現役を引退。「3冠とMVPを有終の美として引退を決意した。周囲からは早すぎるとの声もあったが、やりきった感があり、これ以上の終わり方はないと思った」と理由を語る。

 第二の人生として選んだのが指導の道。「自分の経験や知識を伝えることで、プレーヤーとして伸ばせる自信がある。将来、高校や大学、球界で活躍できる子どもを輩出したい」と意欲を見せる。

 現在は石川県金沢市でチーム指導を含め約150人の塾生を指導。昨年秋からは米原市池下のグリーンパーク山東の屋内施設で月1回の野球塾を開いており、参加者は増加している。今年2月にはアマチュア指導者資格を取得し、小学生から大学生まで幅広く指導が可能となった。

 指導で大切にしているのは子どもとの信頼関係。「知識や技術だけでなく、接し方を重視している」とし、体格や骨格に応じた体の使い方を指導。「形に決まりはなく、その子に合った動きを身につけることで、伸び悩んでいる子も力の出し方が分かるようになる」と話す。

 22日に行われた野球塾では、塾生一人ひとりの癖に応じて体重移動や腰の回し方、下半身の力の入れ方などを丁寧に指導。バッティングやピッチングの実技に加え、メディシンボールを使った体幹強化トレーニングも取り入れ、実践的な内容となっていた。

 4月からは故郷に戻り、グリーンパーク山東を拠点に活動を広げる予定。「地元で野球を広げ、盛り上げていきたい」と力を込める。

 野球塾は月、木、金、土の週4日開催予定で、時間は午後5時半から9時半まで(1回1時間)。1回3人までの少人数制で、投打の指導に対応する。対象は小学生から大学生までで、料金は1回3500円。申し込みはLINE(https://line.me/R/ti/p/@864kksyw)で受け付けており、初回は無料体験としている。問い合わせは℡080(6204)4738へ。

 

 

 

2026年3月26日

クラフトビールフェス米原にぎわう

約2000人来場 笑顔で乾杯広がる

 米原駅東口の米原市役所一帯で20日、「クラフトビールフェス米原」が開かれ、約2000人の来場者でにぎわった。県内を中心に大阪や愛知から訪れたほか、関東からの遠征組の姿も見られ、思い思いの一杯を楽しんだ。

 会場には県内外から8つのブルワリーが出店し、「FLORA FERMENTATION」(東近江市)や「長濱浪漫ビール」(長浜市)、「彦根麦酒」(彦根市)など地元勢に加え、各地の個性豊かなクラフトビールが並んだ。来場者は飲み比べを楽しみながら、それぞれの味わいの違いを堪能していた。

 初開催となった昨年は出店者の予想を上回る人出で、ビールが売り切れる店舗が相次いだ。このため今年は各ブルワリーが昨年の倍の量を用意したが、それでも完売する店が出る盛況ぶりとなった。

 会場では角田航也市長が乾杯の音頭をとり、「心ゆくまで飲んで楽しんでください。乾杯」と呼びかけ、来場者とともにイベントを盛り上げた。各地から集まったクラフトビールファン同士の交流や、造り手との会話も弾んだ。

 主催は鉄道利用の促進による地域活性化を目指す「鉄道を活かした湖北地域振興協議会」。鉄道の結節点という米原の立地を生かし、この日も多くの来場者が在来線や新幹線を利用して訪れた。

 

 

2026年3月25日

竹でつえ作り彦根城へ寄贈

松原の前川さん「喜んでもらえたら」

 彦根市松原1丁目の前川宏志さん(73)が彦根城を登城する入場者用のつえを竹で製作。今月12日に20本を持参し、彦根城運営管理センターの職員に渡した。

 前川さんは、還暦の時に開いた中学時代の同窓会でみんなと彦根城を登った際、当時あったつえが太くて使いにくく、「年配や障害のある方が登城する際、使い易い丈夫なつえがあった方がいい。自分で作って届けよう」と思い立った。以降、「師匠」の釣り仲間に教えてもらいながら、10年ほど前からつえ作りを開始。

 友人が所有する竹やぶに生育している布袋竹と亀甲竹を切り、自宅で枝を除去して、曲がった箇所をバーナーであぶって直線にし、4カ月から6カ月間乾燥させた後、ニスを塗って仕上げる。そして最後に、先端に水道のホースを短く切って滑り止めとして付けて完成させる。

 つえは利用者の身長に合うよう、長さ1㍍20㌢ほどから1㍍50㌢ほどまであり、丁寧に使えば約5年は使えるという。8年ほど前から年間100本ほどのペースで彦根城に贈っており、3カ所の出入り口で「彦根城」の焼き印が押されて無料で貸し出されている。

 前川さんは「来訪者が彦根城に来てよかったと喜んでもらえることが何よりもうれしい。彦根城の世界遺産登録を願って、これからも作っていきたい」と笑顔を見せていた。

(滋賀彦根新聞)