2026年5月15日
【湖北史記 其の27 】開町350年記念の社標を書いた浅野長勲
今年の長浜は、開町450年祭のイベントが目白押しである。本シリーズ「其の1」で、豊国神社が主宰した開町400年祭の石碑は紹介したが、同じく大正13年(1924)の開町350年祭の記念物も残っている。豊国神社の南正面の鳥居に向かって右側に建つ社号標である。ここには、左側面に「長浜開町三百五十年記念建之」とあり、裏面に「豊國神社」の社号揮毫者(きごうしゃ)として「従一位勲(じゅいちいくん)一等侯爵(こうしゃく) 浅野長勲(ながこと)」と刻まれる。
揮毫者の浅野長勲は、秀吉の家臣として知られる浅野長政の子孫である。長政は秀吉の正室の北政所の「ねね」が養女に入った浅野家の婿養子で、秀吉とは「ねね」、その妹「やや」(長政妻)を介して「相婿(あいむこ)」となる。長政は秀吉の五奉行をつとめ、秀吉没後は和歌山藩37万石の藩主となった。その後、同家は広島藩主に移封、多くの豊臣家臣が徳川家によって改易(かいえき)に追い込まれるなか、幕末まで広島藩主の地位を保った。忠臣蔵で有名な赤穂藩浅野内匠頭(たくみのかみ)は、長政三男の流れで広島藩浅野家の別家である。
長勲は広島藩最後の12代藩主で、明治維新後の明治2年(1869)に藩主となった。ただ、翌々年の廃藩置県で免官され東京に移る。日本で初めての洋紙製造工場(王子製紙の前身)を設立したり、イタリア公使も勤め明治以降も活躍した。昭和12年(1937)、94歳の長寿をもって死去した。
その長勲の祖である浅野長政は、意外と長浜にもゆかり深い。天正2年(1574)9月11日付けの浅野弥兵衛(やひょうえ。長政)宛の秀吉宛行状によって、最初の領地は伊香郡持寺(高月町持寺)120石であったことが知られる。まさしく長浜城下町の造成中の話で、長政の屋敷も当然、長浜城内にあったであろう。
旧浅井氏家臣には、長浜城主時代の秀吉に登用され、広島藩士になった者も多い。たとえば、坂田郡野一色村(米原市野一色)の地侍・野一色勝右衛門(かつえもん)長頼は横山城主時代の秀吉に降伏に赴き、その場で長政家臣となるよう命じられた。その子の仁右衛門(にえもん)秀長は元和5年(1619)の段階で、二百石取りの広島藩士であったことが確認できる。坂田郡柏原(米原市柏原)の地侍であった箕浦氏も、広島藩浅野家の重臣となった。
この浅野家と北近江との深いつながりを知ってか、開町三百五十年記念の社号揮毫は浅野長勲に依頼された。長浜の地は、後に全国へ飛躍する武将たちが秀吉に仕官し住(じゅう)した町だ。浅野長政はもちろん、加藤清正や福島正則らも、長浜時代の思い出を持っていたはずである。長浜が近世日本社会のルーツであることは、この点からも言い切れる。
浅野長勲が揮毫した「豊國神社」の社号標
淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司
(滋賀夕刊 2023年5月9日掲載)




