2026年4月10日

パリ在住の画家・中川さん個展

カフェ・ルークで11、12日

 長浜市出身でフランス・パリ在住の画家、中川久美子さんの個展「PARIS VU PAR KUMIKO」が、11日と12日の2日間、三ツ矢元町のカフェ・ルークで開かれる。

 中川さんは2017年12月に渡仏し、パリを拠点に制作活動を続けており、今回が3度目の個展。昨年に続き「パリの街並み」をテーマに、デッサンやオリジナルドローイングなど約100点を展示する。

 新作は、古いフランスの書籍に描いたクロワッサンやカフェの風景など約40点。時を経た紙とインクの質感を生かした表現が特徴という。また、現地のカフェで描いた作品の中には、実際に飲んだコーヒーで着色したものもあり、独特の色合いと空気感を生み出している。

 このほか、「空から観たパリ」シリーズの新作として、オペラ・ガルニエを描いた作品も出展。極細のペンで街並みを緻密に描き、墨の濃淡で奥行きを表現した、細部まで見応えのある仕上がりとなっている。

 中川さんは「パリにはなかなか来られない日本の方にも、私の大好きな古き良き歴史が残る街の雰囲気を、絵から感じ取ってもらえれば」と話している。

 午前10時から午後5時まで。

 

 

2026年4月10日

新たな伝統へ、西浅井小開校

塩津・永原統合、116人が一歩

 西浅井地域の塩津小学校と永原小学校を統合して今年度開校した西浅井小学校の開校式が9日、同校体育館で行われた。児童116人が新たな学びやで学校生活をスタートさせた。

 式では織田恭淳教育長が開校を宣言し、成田健校長に新しい校旗を手渡した。

 浅見宣義市長は式辞で「学校統合は大きな節目であり、不安や戸惑いもあったことと思う。しかし、新しい学校の誕生は、新しい仲間と出会い、新しい伝統をつくり、新しい学校文化を築く出発点でもある」と述べ、「友達が増えたことを大事にし、一緒に学び、育ってほしい」と児童に呼びかけた。

 成田校長は「友達が増た教室での新しい生活が始まる。戸惑うこともあるかもしれないが、新しい西浅井小学校の歴史を一歩一歩つくっていこう」「一人ひとりの挑戦を期待している」と語った。

 児童代表で6年の岡田瑠璃さんは「これまでの学校生活に感謝しながら、みんなで力を合わせて笑顔あふれる温かい学校にしていきましょう。100年以上にわたる両校の歴史に負けない新たな伝統を作りましょう」と児童に呼びかけた。

 校歌斉唱では、米原市出身の岡田健太郎さんが作詞作曲した校歌を全員で歌い上げた。「風を読み船を出す  先人の叡智と勇気  葛籠尾崎のむこう  母なる琵琶湖—」と、伸びやかな歌声が体育館に響いた。

 開校式後には入学式が行われ、1年生11人が期待を胸に新たな学校生活の一歩を踏み出した。

 校舎は西浅井中学校を使用し、1、2階で小学生、3階で中学生が学ぶ。

 

 

2026年4月10日

長浜LCが認証65周年

約200人出席し式典、節目祝う

 長浜ライオンズクラブの認証65周年記念式典が4日、北ビワコホテルグラツィエで開かれ、会員や来賓、県内外のクラブ関係者ら約200人が出席し、節目を祝った。

 同クラブは1961年に発足し、少年サッカー・野球大会の開催や献血活動、平和ポスターコンクール、県立長浜養護学校への支援など、地域に根差した奉仕活動を続けてきた。

 65周年記念事業では、2025年11月に曳山博物館広場で「まちなかマルシェいろどりの庭」を開催。養護学校の卒業生を受け入れている市内の障害者作業所への支援と連携を目的に、各作業所の紹介やトークショーなどを行い、地域との新たなつながりを生み出した。このほか、チャリティーゴルフコンペ、災害時用折りたたみベッド寄贈などを行った。

 式典で宮島正典会長は「1961年4月16日、京都ライオンズクラブの支援を受け、30人のチャーターメンバーで発足した。以来、諸先輩方の尽力と地域の理解、支援に支えられ、65周年を迎えることができた」と謝意を述べた。その上で「周年は創立の意義を再確認する機会。クラブメンバーが同じ方向を向き、活動を通じて協調と友愛を育むことにある」と強調。「求められるところにライオンズがいる、という気持ちを改めて胸に刻み、今後も必要とされる団体となれるよう努力を重ねる」と語った。

 周年事業実行委員長の塚田益司さんはコロナ禍で60周年事業が十分に実施できなかった経緯に触れて、65周年ではフルスペックで周年事業を実施したと説明。マルシェ開催について「障害のある人と市民が垣根を越えて共に楽しむ事業をでき、多くの共感と感動を得られた」と振り返った。

 式典後は祝宴が開かれ、出席者同士が交流を深めた。

2026年4月9日

【湖北史記 其の12】後鳥羽上皇と潜幸伝説

 後鳥羽上皇が登場した。もちろん、源頼朝に続き大河ドラマの話である。後鳥羽上皇(1180~1239)は、わずか4歳で即位するが、早くも19歳にして譲位して院政を行なう。最初は鎌倉幕府第三代将軍の実朝(さねとも)と連携を図り公武の調和を図っていたが、建保7年(1219)に実朝が暗殺されてから倒幕を計画したと言われる。文武に秀で多芸多才で、太刀の製作や鑑定を行なう一方、『新古今和歌集』を勅撰(ちょくせん)で編み、各地への行幸の回数も多い活発な上皇だったことで知られる。

 長浜市西黒田地域や、米原市の旧近江町地域を中心に、この後鳥羽上皇が密かに訪れたという潜幸(せんこう)伝説が伝わる。『改訂近江国坂田郡志』によると、最初は建久10年(1199)3月、2回目は承久2年(1220)4月で、天皇時代から親しくしていた僧の禅行(ぜんこう)を、坂田郡名越村(長浜市名越町)名超寺(みょうちょうじ)に訪ねるためであったと伝える。

 この伝説に付随して、後鳥羽上皇に関する史跡が長浜・米原市内に多く残る。少し例を挙げれば、常喜町の熊岡神社境内には、上皇お手植の杉が残り「王様杉」と呼ばれる。下坂中町の下坂氏館跡や永久寺町の八坂神社には、上皇の「腰掛石」がある。さらに、今荘町には、同地の郷士(ごうし)の娘で、上皇の侍女となったという「豊菊」の墓がある。上皇の死を悲しみ、淵に身をなげたとされる女性である。

 ただ、当時の一級史料である『明月記(めいげっき)』(藤原定家の日記)、『猪隅関白記(いのくまかんぱくき)』(近衛家実の日記)などには、後鳥羽上皇の近江行幸は一切記録されていない。たとえば、建久10年3月13日に後鳥羽上皇が長講堂へ行った際も、『猪隈関白記』は「密々」と記している。つまり「潜幸」であっても、上皇であれば記録に残ってしまうのだ。近江国坂田郡への潜幸は、やはり伝説の域を出ないと考えられる。

 それでは、なぜこの伝説が成立したか。実は、伝説が広まった西黒田地域に中世にあった鳥羽上荘(とばかみのしょう)や、旧近江町や米原町に広がる箕浦荘(みのうらのしょう)は、後鳥羽院御影堂(みえどう。現在の大阪府島本町にある水無瀬(みなせ)神宮の前身)の所領だった。そのことから、後鳥羽上皇との関係が地元でささやかれるようになり、潜幸をともなう伝説が成立したものと見られる。このように、伝説はそのまま史実と見なせないが、伝説が生まれた背景には史実がある。現在、西黒田まちづくりセンターを中心に、この伝説を活用した「まちづくり」事業が展開している。地域の伝説を大切にする試みは心強い。

 

名越町に鎮座する上皇を祀る後鳥羽神社

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2022年8月18日掲載)

 

2026年4月9日

【湖北史記 其の11】西田天香と北海道開拓

 西田天香という人物がいる。長浜市名誉市民第一号であったことで有名だが、長浜町の出身で、大正10年(1921)に講演集『懺悔(ざんげ)の生活』を出版した。これが120版を重ねるベストセラーとなり、昭和11年(1936)には京都山科に、現在まで続く修養団体「一燈園」を創設したことでも知られる。今年、その生誕150年に当たるので、深い縁がある画家・杉本哲郎の顕彰と共に、8月から12月にかけて連続講座や展覧会が実行委員会の主催で行なわれる。

 この天香の生涯のなかで、私が特に注目したいのは、20代の彼が明治26年(1893)から、長浜の実業家・河路重平の支援を受けて北海道開拓を行なったことである。入植の場所は、岩見沢の南10㌔にある幌向(ほろむい)原野東部の清真布(きよまっぷ)と呼ばれる地で、現在の岩見沢市栗沢町の市街地に当たる。

 明治期に入ると、新天地を求めて日本全国から北海道への入植が始まるが、田畑の開墾、銀行の開設、取引所の開設、織物工場の建設、炭坑の開山など北海道開拓の多くの分野に滋賀県からの入植者も貢献している。明治15年(1882)から昭和10年(1935)の間に、滋賀県からは6533戸、約3万人が北海道に移住しており、関西地区では兵庫県に次いで多い移住者数であった。例えば、天香からやや遅れて明治28年、甲賀郡下田(しもだ)村(湖南市下田)の村民20戸が団体入植したのが、北海道比布(ぴっぷ)町の開拓の始まりである。

 天香は、河路が社長の必成社(ひっせいしゃ)という会社を運営し、北近江からの移民を行なった。開拓の苦労話は多い。当初は農場内に多くの熊がおり、入植者は大きな声を掛け合いながら林の中を進むのが日課であった。明治27年には岩見沢・栗山間の室蘭線に清真布駅(現在の栗沢駅)が開業、明治29年には必成社が北海道亜麻(あま)製線株式会社を設立するなど、順調に町は発展していった。天香は明治32年まで、必成社の主監をつとめ、その中心として活躍した。

 この栗沢町には長浜ゆかりの寺社が現在も残る。栗沢神社は入植当時、幸穂(さちほ)神社といったが、明治30年に建立され、少し遅れて明治41年に長浜八幡宮の分霊を迎えている。市街地の北にある浄土真宗の清真寺(せいしんじ)は、天香が維持してきた幸穂説教所を前身としており、明治35年に現在地に建立された。境内の西南隅には、木之本地蔵尊の分霊を祀る小祠が存在する。天香という人物を通して、長浜の近代を学びたい。

創業当時の必成社事務所

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2022年8月4日掲載)

 

2026年4月9日

【湖北史記 其の10】大吉寺と頼朝供養塔

 源頼朝が死んだ。もちろん、大河ドラマの話である。実は、長浜市内にも源頼朝関連の史跡がある。野瀬町にある大吉寺(だいきちじ)だ。野瀬集落の北東、標高750㍍の天吉寺(てんきちじ)山の西斜面、標高650㍍前後の平坦地にあった。元亀(げんき)3年(1572)の信長焼き討ちまでは、49坊と言われる広大な伽藍(がらん)が山上に存在したが、江戸時代から山麓に本堂を建立し現在に至る。山上の跡地には、本堂跡や経堂跡、無数の坊跡などの遺構が残り、滋賀県指定史跡となっている。

 鎌倉幕府が編纂(へんさん)した『吾妻鏡(あづまかがみ)』は、平清盛と戦った平治元年(1159)の「平治の乱」で敗れた源義朝(頼朝の父)が、尾張国へ逃げる途中、草野定康に導かれ、その「氏寺」である「大吉堂」に匿われたと記している。さらに、これが『平治物語』になると、北近江に逃れたのは頼朝という話となる。そして、江戸時代の地誌『近江輿地志略(よちしりゃく)』には、大吉寺に逃れたのは頼朝と明確に記し、平家滅亡の後、頼朝が「大檀那(だいだんな)」となり、弟の義経が奉行に任じられ寺の復興がなったと記す。

 大吉寺には、毎年9月の「敬老の日」に行なわれる虫供養という行事がある。絹糸になる蚕や、農作業で駆除される虫たちを供養する行事だが、江戸時代は11月18日から24日の間に行なわれていたことが古文書から知られる。この行事も、文治2年(1186)7月7日に頼朝から全国勧進(かんじん)が許されて始められたと伝えている。

 さらに、大吉寺には頼朝の供養塔と伝える宝塔(ほうとう)が本堂跡の北側にある。頂部の相輪(そうりん)が欠如しているが、高さ1㍍57㌢余り、円形をした塔身(径60㌢)下の基礎が90㌢四方で、簡単に言えば人の大きさほどある。建長3年(1251)7月と塔身(とうしん)に記されていて、頼朝死後50年程たっての建立と分かる。  この宝塔の修理が令和2年10月から12月にかけて、野瀬自治会によって行なわれた。修理の実務を担当したのは、文化財修理が専門の元興寺文化財研究所(奈良市)で、塔身が割れて針金でとめていた現状を一度解体し、全体のクリーニング、強化剤や撥水剤(はっすいざい)を沁み込ませて石剤の強度を増し、長期的な保存を図った。

 大吉寺へ至ったのは義朝か頼朝か。歴史学の立場からは、『吾妻鏡』の記事を信じ義朝と言わざるを得ない。ただ、寺や地域では頼朝と伝え、「頼朝の寺」として広く信仰されてきた。史実はさておき、頼朝を追慕しての地域住民の思いが、宝塔の修理を実現させたことを重視したい。「頼朝の生と死」は、テレビの世界のみの話ではない。

 

修理がなった頼朝供養塔

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2022年7月21日掲載)

2026年4月9日

子ども歌舞伎、仕上げへ熱気

長浜曳山まつり迫る、稽古佳境に

 長浜曳山まつり(4月13〜16日)を前に、出番山の詰め所では子ども歌舞伎の稽古が佳境を迎えている。子ども役者たちは朝・昼・夜の1日3回に分けて稽古を重ね、本番へ向けて完成度を高めている。

 6日、常磐山の詰め所(元浜町)では、振付師の川村和彦さんの指導のもと、役者5人が真剣な表情で舞台づくりに打ち込み、台詞の言い回しや所作について細かな指導が飛んだ。

 常磐山の演目は「摂州合邦辻 合邦庵室の場」。長浜曳山まつりでは1963年に上演されて以来、63年ぶりの演目となる。高安家の騒動を巡り、継母・玉手御前が義理の息子・俊徳丸に邪恋を装いながらも一途な真心で救おうとする物語で、最後は自らの命を賭して奇跡を起こす。

 玉手御前役の川村要太さん(長浜小5年)は「多くの観客の前でもプレッシャーに負けず、しっかり演じたい」と意気込む。娘(玉手御前)を刺す父・合邦道心を演じる吉田睦さん(神照小6年)は「娘を刺す場面で、怒りと悲しみが混ざる表情が難しい。そこに注目してほしい」と話し、「稽古は大変だが楽しい」と充実した表情を見せた。

 指導する川村さんは「江戸時代の現代劇とも言える作品。三味線や太夫と合わせた“ノリ”が見どころで、音楽劇としての一体感が重要。子どもたちには恐れず役になりきり、丁寧に演じてほしい」と期待を寄せる。

 まつりに向けては、9日に子ども歌舞伎の仕上がりを確認する「線香番」が行われるほか、同日から4夜連続で若衆がまつりの成功を祈願して長浜八幡宮へ参拝する裸参りがある。

 

 

2026年4月8日

ひこにゃんの新ナンバープレート

20周年記念デザインのみ20枚限定

 彦根市は、ひこにゃん20周年に合わせた原付バイク用のナンバープレートの新しいデザインを発表。ひこにゃんのみと、わるにゃんこ将軍とコラボさせた2パターンで、導入に向けたクラウドファンディングを今月13日から開始する。

 ひこにゃんの原付用ナンバープレートは2018年10月に1種類のみを導入し、今年3月31日時点で市内約4700台の原付バイクのうち、約2000枚が使われている。

 新しいナンバープレートは赤い原付バイクにひこにゃんが乗っているデザインで、50cc以下の白色、90cc以下の黄色、125cc以下のピンク色を用意。また20周年記念の限定バージョンは、金のふちにサイドカーに乗るひこにゃんと運転するわるにゃんこ将軍が描かれており、50cc以下のを20枚のみ交付する計画。いずれのナンバープレートとも彦根市内に原付バイクを駐車している者のみ対象となる。大きさはいずれも縦10㌢×横20㌢。

 市は2パターンのナンバープレートの製作費をクラファンのキャンプファイヤー(https://camp-fire.jp/projects/933797/view?utm_source=qr_code)で募集。目標額100万円。一口1万円か5000円で、1万円のみ寄付金控除および寄附金税額控除対象となる。返礼品は20周年記念デザインのナンバープレートと同じ大きさで、同様のアルミ素材のレプリカ。彦根市民でも5000円の寄付者のみ返礼品の対象となる。クラファンは5月12日まで。目標額に届かない場合はいずれのナンバープレートや返礼品も作られず、寄付は返金される。

 クラファン達成後、ナンバープレートを製作し、10月ごろに交付とレプリカの発送を始める。20周年記念の限定バージョンのみ抽選となる。問い合わせは彦根市税務課℡0749(30)6140へ。

(滋賀彦根新聞)

2026年4月6日

古墳巡りがもっと楽しく!

古保利古墳群の「御墳印」2カ所で販売

 長浜市は、国指定史跡の古保利古墳群を題材にした記念印「御墳印(ごふいん)」の販売を1日から始めた。古墳を訪れた記念として購入できる“御朱印の古墳版”で、県内では初の取り組みとなる。

 御墳印は、埼玉県の行田おもてなし観光局が始めた「御墳印コレクション」の一環として全国に広がっているもの。市は同コレクションに参画し、古墳巡りの新たな楽しみ方として周遊観光の促進を図る。

 同古墳群は、琵琶湖北端・塩津湾東岸の丘陵に広がる県内屈指の大規模古墳群。古墳時代初期から終末期にかけて築かれた132基で構成され、前方後円墳や前方後方墳、円墳、方墳が南北約3㌔にわたって分布する。琵琶湖に面した立地から水上交通との関わりが指摘され、当時の交通や地域勢力の実態を知る上で重要な遺跡とされている。

 今回の御墳印は、代表的な前方後方墳「小松古墳」の等高線図を背景に、出土品や「近江國御墳印」の角印を配置。題字は市観光PRキャラクターのひでよしくんが揮毫した。裏面には古墳群の概要を紹介している。

 販売は長浜城歴史博物館と高月観音の里歴史民俗資料館で行う。A6判で300円。

 市は「古墳を巡る楽しみを広げるとともに、周遊観光の促進と文化財への関心喚起を図りたい」としている。

2026年4月3日

図書館廊下に、「100年ピアノ」の世界

新江州、地元のびわ南小に内装デザイン寄贈

 住宅・産業資材の開発・製造などを手がける新江州(森和之社長、川道町)は、地元のびわ南小学校で図書館に面した廊下の壁に内装デザインを施した。同校で大切にされている「100年ピアノ」をモチーフにしたもので、児童の想像力を育む空間として、新学期に登校する児童を驚かせそうだ。

 内装デザインは、同社ブランド「LUMIERED(ルミエルド)」が手がけ、幅28㍍、高さ2・7㍍にわたり施工された。ピアノを中心に、音符や琵琶湖の魚のイラストを配し、物語性のある空間を演出している。

 デザインは3案を制作し、児童による人気投票で採用作品を決定した。制作は同ブランドのデザイナー・水戸部さくらさん(23)が担当し、営業の白井乃映さん(26)が現地調整などを担った。

 コンセプトは「100年の時を超えて大切に使われてきたピアノ」。その音色が絵本の世界のように広がり、琵琶湖の中へふわりと溶け込んでいく様子を描いた。廊下を行き交う児童が足を止め、音や物語を思い描くきっかけとなるよう工夫されている。

 水戸部さんは「ピアノと琵琶湖をモチーフに、音楽と自然がやさしくつながる世界を表現した。音符や魚の動きに抑揚を持たせて、壁の中に流れや生命感を生み出し、空間全体がやわらかく息づくようなデザインとした」と説明する。

 一方、びわ南小の卒業生でもある白井さんは「母校に仕事として関わることができ、昔と今がつながったようで感慨深い。地元企業の取り組みを子どもたちに知ってもらう良い機会になった」と語った。

 森社長は「このようなデザインはなかなかない。ぜひ自慢してほしい。児童には学校を好きになってもらいたい」と期待を寄せる。

 今回の寄贈では、内装デザインに加え、ピアノ発表会を控えた同校の児童5人を主人公にしたオリジナル絵本「ひみつのぼうけん みずうみのせかいへ」も制作し、学校に贈った。さらに、図書館司書が選定した児童用図書27冊も寄贈した。

 森悦夫校長は「素敵な壁のフィルムと絵本を大変うれしく思う。末永く大切にしていきたい」と感謝の言葉を述べた。

 同社は「人を大切に」を経営理念に掲げ、地域貢献活動として学校や地域と交流を続けている。2017年からは毎年、びわ南小に児童用図書を寄贈し、「新江州文庫」として蔵書の充実を支援しているほか、創立150周年の際にはオルガンを寄贈するなど、学びや感性を育む環境づくりに取り組んでいる。

 

 

2026年4月3日

玄宮園の高橋で渡り初め式

修繕完了、クラファンで1500万円

 彦根市は架け替えをしていた玄宮園の高橋(たかばし)の工事を完了させた。経費をクラウドファンディングで募っていたため、1日の渡り初め式では支援者を招いてテープカットなどを実施した。

 玄宮園の高橋は、園内にあるいずれも江戸時代に建設された9つの橋のうち、鳳翔台と中島をつなげる長さ約9㍍×幅約2㍍の橋。前回の修復から約40年が経過し、橋脚やはり、手すり、床板などの部材が劣化していたため、昨年11月末から全体の架け替え工事を実施。事業費3434万円のうち約1505万円をクラウドファンディングで集めた。

 渡り初め式には、施工した克建の鳰克宏社長、設計した京都芸術大学日本庭園・歴史遺産研究センターの仲隆裕所長、クラファンの支援者約10人が出席。田島一成市長は「新しくなったという喜びだけでなく、一人ひとりの協力で作り上げ、次の世代に引き継ぐことができたことが意義深い」とあいさつ。支援者を代表し、ひこにゃんとのじゃんけんで勝った小室文相さん(53)=茨城県ひたちなか市=に、高橋の部材を使ったカッティングボードを返礼品として代表で進呈。その後、市長や小室さんらがテープカットをした後、参加者全員で渡り初めを行った。

 渡り初めをした市立城南小新4年の北沢栄一郎君(9)は「高橋は高くて、眺めがきれいだった。春休みのいい思い出になった」と話した。玄宮園では今後、龍臥橋の架け替え工事も2027年度以降に行われる予定。

(滋賀彦根新聞)

 

2026年4月2日

【湖北史記 其の9】「東」もあった黒田の話

 前回、「郷里」を考えるのに、「擬制荘園」の話をした。中世の荘園ではなく、江戸時代の数ヶ村を含む中域地名として成立したものだった。実は「西黒田」も、この「擬制荘園」を基にして命名された明治の新村名である。今も「まちセン」の名前などで馴染み深い。

 江戸時代後期の地誌『淡海木間攫(おうみこまざらえ)』(以下、『木間攫』)によれば、旧山東町の東黒田地域(本郷など)と現在の西黒田地域に横山丘陵をまたがって「黒田荘(くろだのしょう)」という荘園があったと記す。確かに、かつての山東側の本郷付近は、中世において「黒田郷」と呼ばれたと見られ、明治22年(1889)には「東黒田村」が成立している。現在の米原市北方(きたがた)は、「黒田郷」の「北方(ほっぽう)」の意味である。

 ただ、「黒田郷」はあっても、「黒田荘」はなかった。現在、「東黒田」の地名は、長岡の「東黒田警察官駐在所」以外残らないが、米原市立大東中学校はその名残と言える。昭和22年(1947)に新制中学として創立した時は、東黒田村立黒田中学校と言った。翌々年に大原村立大原中学校と合併、「大」と「東」の文字をとって今の校名となった。

 一方、山西部の西黒田地域では、名越・常喜・本庄・鳥羽上の各村が「黒田荘」に含まれると『木間攫』は記す。しかし、実際に中世においてこの地にあった荘園は、鳥羽上荘(とばかみのしょう)や常喜本荘で「黒田荘」はなかった。鳥羽上荘は、後鳥羽上皇の御影堂(みえどう。現在、大阪府島本町にある水無瀬(みなせ)神宮)の所領だったのでこの名がある。

 西黒田地域の布施(布勢)・小一条の両村は、『木間攫』では「押延ノ庄」に含まれるとするが、「忍海荘(おしのべしょう)」の字が正しい。「忍海」は現在奈良県葛城市(かつらぎし)に同名の地名「忍海(おしみ)」があるが、古代に製鉄技術を持って朝鮮から来た渡来人の集住地を指すと見られる。なお、この二ヶ村を明治8年(1875)から昭和18年(1943)まで「薗原(そのはら)」と言ったが、語源はよく分からない。

 さらに付言すれば、西黒田地域の八条村を、『木間攫』では「郷里ノ荘」に入れている。正しくは福能部荘(ふくのべのしょう)の一部だから、「黒田荘」域に入れないという点については合っている。この福能部荘という荘園は、現在の七条・八条・石田・今川の各町を含んだが、現在地名に片鱗すら残らない。「福能部」は、おそらく領主が一方的につけた瑞祥地名、つまりキラキラ地名。その典型である藤原定家の荘園「吉富荘(現在の彦根市鳥居本町付近)」が定着しなかったように、住民に受け入れられなかった荘園名なのだろう。

 

西黒田尋常高等小学校の跡地石柱

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2022年7月7日掲載)