2026年4月16日
【湖北史記 其の15】浅井亮政と尼子氏
浅井久政・長政の450回忌に際して、この親子二人の話をしたので、今回はさらに遡(さかのぼ)って、戦国大名としての浅井家初代・亮政(すけまさ)の話をしよう。浅井氏は浅井郡丁野(ようの)村(小谷丁野町)出身の国衆(くにしゅう)であった。まだ守護京極氏の家来だった時代、浅井氏嫡流家には跡継ぎとして蔵屋(くらや)という女性しかいなかった。そこに、庶流家から養子として、蔵屋の夫に迎えられたのが亮政であった。
亮政は大永三年(1523)に起きた京極氏の跡目争い「大吉寺梅本坊の公事(くじ)」を契機に、京極氏に代わり北近江の武将たちの信望を集め、盟主としての地位を確立していく。その亮政の最大の悩みは、南近江の戦国大名六角氏の北上政策であった。六角氏は浅井領国南部の佐和山城・鎌刃城(かまのはじょう)・太尾城(ふとおじょう)に度々攻撃をしかけ、亮政は天野川や姉川を挟んでの合戦にもいどんだ。北近江の統治を安定化したい亮政にとって、領国南部の政情は非常に重要であった。
そこで手をうったのが、領国南部に続く犬上郡尼子(あまご。甲良町尼子)を本貫とする尼子氏の懐柔策である。具体的には、尼子氏の娘・馨庵(けいあん。寿松)を側室に迎えたのである。犬上郡の尼子氏については史料が少なく不明な点も多いが、室町時代には京極氏が北近江と共に守護を務めた出雲国へ移り、守護代として活躍する一族もあった。この出雲国の尼子氏は、戦国時代になると下剋上して、京極氏の勢力を凌ぎ、尼子晴久の時代には8カ国を領する、山陰の戦国大名に成長したことはよく知られている。
亮政は婚姻により犬上郡の国衆を味方にすることによって、浅井氏勢力の南下を図り、六角氏勢力の北上を阻止しようとした訳である。馨庵は、天文4年(1535)から同23年(1554)に至るまで、4回にわたり浅井氏の菩提寺・徳勝寺で授戒(仏に帰依する儀式)を受けている。さらに、永禄6年(1563)には鉄燈籠と燈明田を、竹生島に寄進した他、永禄9年(1566)には弁才天像一体を造立し、翌年竹生島蓮華会(れんげえ)の頭役(とうやく)をつとめている。浅井氏二代目を継ぐ久政は、正室の蔵屋の子ではなく、側室の馨庵の子であったことを見ても、その一族内での影響力の大きさが伺えよう。
今、甲良町尼子を訪れると、尼子城の堀跡と言われる「殿城池」が村中に残っている。また、近くには城跡の土塁が残り、「尼子土塁公園」として整備されている。あるいは、この城跡は馨庵が生まれた地かもしれない。この地から政略結婚で小谷城に嫁に行き、亮政の側室として嗣子までもうけた馨庵の生きざまをみると、戦国の女性の力強さを感じる。あわせて政略結婚しかない戦国の非情を知る。
尼子土塁公園(犬上郡甲良町尼子)
淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司
(滋賀夕刊 2022年9月29日掲載)




