【湖北史記 其の12】後鳥羽上皇と潜幸伝説

 後鳥羽上皇が登場した。もちろん、源頼朝に続き大河ドラマの話である。後鳥羽上皇(1180~1239)は、わずか4歳で即位するが、早くも19歳にして譲位して院政を行なう。最初は鎌倉幕府第三代将軍の実朝(さねとも)と連携を図り公武の調和を図っていたが、建保7年(1219)に実朝が暗殺されてから倒幕を計画したと言われる。文武に秀で多芸多才で、太刀の製作や鑑定を行なう一方、『新古今和歌集』を勅撰(ちょくせん)で編み、各地への行幸の回数も多い活発な上皇だったことで知られる。

 長浜市西黒田地域や、米原市の旧近江町地域を中心に、この後鳥羽上皇が密かに訪れたという潜幸(せんこう)伝説が伝わる。『改訂近江国坂田郡志』によると、最初は建久10年(1199)3月、2回目は承久2年(1220)4月で、天皇時代から親しくしていた僧の禅行(ぜんこう)を、坂田郡名越村(長浜市名越町)名超寺(みょうちょうじ)に訪ねるためであったと伝える。

 この伝説に付随して、後鳥羽上皇に関する史跡が長浜・米原市内に多く残る。少し例を挙げれば、常喜町の熊岡神社境内には、上皇お手植の杉が残り「王様杉」と呼ばれる。下坂中町の下坂氏館跡や永久寺町の八坂神社には、上皇の「腰掛石」がある。さらに、今荘町には、同地の郷士(ごうし)の娘で、上皇の侍女となったという「豊菊」の墓がある。上皇の死を悲しみ、淵に身をなげたとされる女性である。

 ただ、当時の一級史料である『明月記(めいげっき)』(藤原定家の日記)、『猪隅関白記(いのくまかんぱくき)』(近衛家実の日記)などには、後鳥羽上皇の近江行幸は一切記録されていない。たとえば、建久10年3月13日に後鳥羽上皇が長講堂へ行った際も、『猪隈関白記』は「密々」と記している。つまり「潜幸」であっても、上皇であれば記録に残ってしまうのだ。近江国坂田郡への潜幸は、やはり伝説の域を出ないと考えられる。

 それでは、なぜこの伝説が成立したか。実は、伝説が広まった西黒田地域に中世にあった鳥羽上荘(とばかみのしょう)や、旧近江町や米原町に広がる箕浦荘(みのうらのしょう)は、後鳥羽院御影堂(みえどう。現在の大阪府島本町にある水無瀬(みなせ)神宮の前身)の所領だった。そのことから、後鳥羽上皇との関係が地元でささやかれるようになり、潜幸をともなう伝説が成立したものと見られる。このように、伝説はそのまま史実と見なせないが、伝説が生まれた背景には史実がある。現在、西黒田まちづくりセンターを中心に、この伝説を活用した「まちづくり」事業が展開している。地域の伝説を大切にする試みは心強い。

 

名越町に鎮座する上皇を祀る後鳥羽神社

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2022年8月18日掲載)

 

掲載日: 2026年04月09日