【湖北史記 其の11】西田天香と北海道開拓

 西田天香という人物がいる。長浜市名誉市民第一号であったことで有名だが、長浜町の出身で、大正10年(1921)に講演集『懺悔(ざんげ)の生活』を出版した。これが120版を重ねるベストセラーとなり、昭和11年(1936)には京都山科に、現在まで続く修養団体「一燈園」を創設したことでも知られる。今年、その生誕150年に当たるので、深い縁がある画家・杉本哲郎の顕彰と共に、8月から12月にかけて連続講座や展覧会が実行委員会の主催で行なわれる。

 この天香の生涯のなかで、私が特に注目したいのは、20代の彼が明治26年(1893)から、長浜の実業家・河路重平の支援を受けて北海道開拓を行なったことである。入植の場所は、岩見沢の南10㌔にある幌向(ほろむい)原野東部の清真布(きよまっぷ)と呼ばれる地で、現在の岩見沢市栗沢町の市街地に当たる。

 明治期に入ると、新天地を求めて日本全国から北海道への入植が始まるが、田畑の開墾、銀行の開設、取引所の開設、織物工場の建設、炭坑の開山など北海道開拓の多くの分野に滋賀県からの入植者も貢献している。明治15年(1882)から昭和10年(1935)の間に、滋賀県からは6533戸、約3万人が北海道に移住しており、関西地区では兵庫県に次いで多い移住者数であった。例えば、天香からやや遅れて明治28年、甲賀郡下田(しもだ)村(湖南市下田)の村民20戸が団体入植したのが、北海道比布(ぴっぷ)町の開拓の始まりである。

 天香は、河路が社長の必成社(ひっせいしゃ)という会社を運営し、北近江からの移民を行なった。開拓の苦労話は多い。当初は農場内に多くの熊がおり、入植者は大きな声を掛け合いながら林の中を進むのが日課であった。明治27年には岩見沢・栗山間の室蘭線に清真布駅(現在の栗沢駅)が開業、明治29年には必成社が北海道亜麻(あま)製線株式会社を設立するなど、順調に町は発展していった。天香は明治32年まで、必成社の主監をつとめ、その中心として活躍した。

 この栗沢町には長浜ゆかりの寺社が現在も残る。栗沢神社は入植当時、幸穂(さちほ)神社といったが、明治30年に建立され、少し遅れて明治41年に長浜八幡宮の分霊を迎えている。市街地の北にある浄土真宗の清真寺(せいしんじ)は、天香が維持してきた幸穂説教所を前身としており、明治35年に現在地に建立された。境内の西南隅には、木之本地蔵尊の分霊を祀る小祠が存在する。天香という人物を通して、長浜の近代を学びたい。

創業当時の必成社事務所

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2022年8月4日掲載)

 

掲載日: 2026年04月09日