源頼朝が死んだ。もちろん、大河ドラマの話である。実は、長浜市内にも源頼朝関連の史跡がある。野瀬町にある大吉寺(だいきちじ)だ。野瀬集落の北東、標高750㍍の天吉寺(てんきちじ)山の西斜面、標高650㍍前後の平坦地にあった。元亀(げんき)3年(1572)の信長焼き討ちまでは、49坊と言われる広大な伽藍(がらん)が山上に存在したが、江戸時代から山麓に本堂を建立し現在に至る。山上の跡地には、本堂跡や経堂跡、無数の坊跡などの遺構が残り、滋賀県指定史跡となっている。
鎌倉幕府が編纂(へんさん)した『吾妻鏡(あづまかがみ)』は、平清盛と戦った平治元年(1159)の「平治の乱」で敗れた源義朝(頼朝の父)が、尾張国へ逃げる途中、草野定康に導かれ、その「氏寺」である「大吉堂」に匿われたと記している。さらに、これが『平治物語』になると、北近江に逃れたのは頼朝という話となる。そして、江戸時代の地誌『近江輿地志略(よちしりゃく)』には、大吉寺に逃れたのは頼朝と明確に記し、平家滅亡の後、頼朝が「大檀那(だいだんな)」となり、弟の義経が奉行に任じられ寺の復興がなったと記す。
大吉寺には、毎年9月の「敬老の日」に行なわれる虫供養という行事がある。絹糸になる蚕や、農作業で駆除される虫たちを供養する行事だが、江戸時代は11月18日から24日の間に行なわれていたことが古文書から知られる。この行事も、文治2年(1186)7月7日に頼朝から全国勧進(かんじん)が許されて始められたと伝えている。
さらに、大吉寺には頼朝の供養塔と伝える宝塔(ほうとう)が本堂跡の北側にある。頂部の相輪(そうりん)が欠如しているが、高さ1㍍57㌢余り、円形をした塔身(径60㌢)下の基礎が90㌢四方で、簡単に言えば人の大きさほどある。建長3年(1251)7月と塔身(とうしん)に記されていて、頼朝死後50年程たっての建立と分かる。 この宝塔の修理が令和2年10月から12月にかけて、野瀬自治会によって行なわれた。修理の実務を担当したのは、文化財修理が専門の元興寺文化財研究所(奈良市)で、塔身が割れて針金でとめていた現状を一度解体し、全体のクリーニング、強化剤や撥水剤(はっすいざい)を沁み込ませて石剤の強度を増し、長期的な保存を図った。
大吉寺へ至ったのは義朝か頼朝か。歴史学の立場からは、『吾妻鏡』の記事を信じ義朝と言わざるを得ない。ただ、寺や地域では頼朝と伝え、「頼朝の寺」として広く信仰されてきた。史実はさておき、頼朝を追慕しての地域住民の思いが、宝塔の修理を実現させたことを重視したい。「頼朝の生と死」は、テレビの世界のみの話ではない。

修理がなった頼朝供養塔
淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司
(滋賀夕刊 2022年7月21日掲載)




