【湖北史記 其の9】「東」もあった黒田の話

 前回、「郷里」を考えるのに、「擬制荘園」の話をした。中世の荘園ではなく、江戸時代の数ヶ村を含む中域地名として成立したものだった。実は「西黒田」も、この「擬制荘園」を基にして命名された明治の新村名である。今も「まちセン」の名前などで馴染み深い。

 江戸時代後期の地誌『淡海木間攫(おうみこまざらえ)』(以下、『木間攫』)によれば、旧山東町の東黒田地域(本郷など)と現在の西黒田地域に横山丘陵をまたがって「黒田荘(くろだのしょう)」という荘園があったと記す。確かに、かつての山東側の本郷付近は、中世において「黒田郷」と呼ばれたと見られ、明治22年(1889)には「東黒田村」が成立している。現在の米原市北方(きたがた)は、「黒田郷」の「北方(ほっぽう)」の意味である。

 ただ、「黒田郷」はあっても、「黒田荘」はなかった。現在、「東黒田」の地名は、長岡の「東黒田警察官駐在所」以外残らないが、米原市立大東中学校はその名残と言える。昭和22年(1947)に新制中学として創立した時は、東黒田村立黒田中学校と言った。翌々年に大原村立大原中学校と合併、「大」と「東」の文字をとって今の校名となった。

 一方、山西部の西黒田地域では、名越・常喜・本庄・鳥羽上の各村が「黒田荘」に含まれると『木間攫』は記す。しかし、実際に中世においてこの地にあった荘園は、鳥羽上荘(とばかみのしょう)や常喜本荘で「黒田荘」はなかった。鳥羽上荘は、後鳥羽上皇の御影堂(みえどう。現在、大阪府島本町にある水無瀬(みなせ)神宮)の所領だったのでこの名がある。

 西黒田地域の布施(布勢)・小一条の両村は、『木間攫』では「押延ノ庄」に含まれるとするが、「忍海荘(おしのべしょう)」の字が正しい。「忍海」は現在奈良県葛城市(かつらぎし)に同名の地名「忍海(おしみ)」があるが、古代に製鉄技術を持って朝鮮から来た渡来人の集住地を指すと見られる。なお、この二ヶ村を明治8年(1875)から昭和18年(1943)まで「薗原(そのはら)」と言ったが、語源はよく分からない。

 さらに付言すれば、西黒田地域の八条村を、『木間攫』では「郷里ノ荘」に入れている。正しくは福能部荘(ふくのべのしょう)の一部だから、「黒田荘」域に入れないという点については合っている。この福能部荘という荘園は、現在の七条・八条・石田・今川の各町を含んだが、現在地名に片鱗すら残らない。「福能部」は、おそらく領主が一方的につけた瑞祥地名、つまりキラキラ地名。その典型である藤原定家の荘園「吉富荘(現在の彦根市鳥居本町付近)」が定着しなかったように、住民に受け入れられなかった荘園名なのだろう。

 

西黒田尋常高等小学校の跡地石柱

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2022年7月7日掲載)

掲載日: 2026年04月02日