【湖北史記 其の7】「六荘」には六つ荘園があったか

 地名の話の続きで「六荘」を考える。現在も「六荘まちづくりセンター」や「六荘認定こども園」の公共施設名が残り、市民には馴染み深い地域名だろう。この地名は、明治22年(1889)の町村制施行によって成立した六荘村が基(もと)である。

 「六荘」の語源について『滋賀県市町村沿革史』は、中世において①下坂荘(しもさかのしょう)②加田荘③八幡荘(はちまんのしょう)④平方荘⑤坂田荘⑥楞厳院荘(りょうごんいんのしょう)の「六つの荘園」があったからとする。荘園はもともと中央の寺社や貴族などが所有・管理する広域の経営体であったが、室町後期にはその領有権が失われ、単なる地名となっていた。「六つの荘園」という場合も、地名としての荘園と思った方が分かりやすい。

 ①下坂荘の区域は、大戌亥・下坂浜・高橋・下坂中・永久寺の各町。②加田荘は、南北朝期に下坂荘から分立した荘園で、加田・寺田・田村からなる。今回の話とは無縁だが、加田今町は朝妻荘(米原市宇賀野・長沢周辺)に属した。加田町と加田今町の間に「庄堺」という小字(こあざ)があるのは、加田荘と朝妻荘の堺(荘堺)の意味である。

 ③八幡荘はもともと、石清水八幡宮領細江荘と言ったが、南北朝期から八幡荘と呼ばれるようになる。現在の長浜曳山祭で、御旅所からの神輿(みこし)の還御(かんぎょ)を担当する「七郷(しちごう)」の区域である。したがって、六荘地域では八幡東と南高田の両町が含まれる。④平方荘は、もともと比叡山領細江荘と称した。上郷(かみのごう)と下郷があったが、後者は現在の平方・地福寺の両町に当たる。

 最後に⑤坂田荘は比叡山楞厳院領で、南郷里地域の宮司町などが中心だが、六荘地域では、室・大辰巳・四ツ塚・勝の各町がこの荘園に含まれる。後に領主の名を取って⑥楞厳院荘と呼ばれた。つまり、⑤坂田荘と⑥楞厳院荘は同一荘園の異名なのであるが、命名当時はその認識がなかった。

 明治の町村制の施行の段階で、当地の人々が中世の荘園にこだわったのは、滋賀県当局が荘園名など、歴史的地名を重視して新町村名をつけるよう指導していたからである。荘園の一部が含まれれば、地域内の荘園と見なし、「六つの荘園があった村」という新村名を創出したことになる。

 ⑤坂田荘と⑥楞厳院荘が同一荘園なら「六荘」ならぬ「五荘」になる。少し困った。③八幡荘と④平方荘は、もともと細江荘と言ったので、この細江荘を加算すると「七荘」になる。これも困る。間を取って「六荘」で問題なしと結論しておこう。

 

六荘認定こども園

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2022年6月14日掲載)

掲載日: 2026年04月02日