【湖北史記 其の1】今浜から長浜へ

 先月20日・21日に長浜文化芸術会館で行なわれた市民創造オペラ「しのぶときく」は、両日で5百人以上の観客を集め大成功に終わった。このオペラは、今浜村の漁師たちが参加して長浜築城が行なわれた話に、長浜城人柱伝承を織り交ぜて脚色したドラマだった。その中でも秀吉が「今浜」の地名を改め「長浜」としたのは、主君である織田信長の「長」の意味だというセリフがあった。

 「今浜」の地名だが、長浜八幡宮に残る永享7年(1435)の猿楽観覧の座席一覧には「今濱村」の村名が見え、その代表者として道林や道秀の名がある。さらに、神照寺に残る同時代の寺田記録には、「イマハマノ法住」や「今濱三郎左衛門」の名前が登場する。これらから、「今浜」は確実に室町時代から存在した村名であり、そこに住民がいたことも確かである。「今」には「新」の意があり、新たに開発された漁港というのが地名の意味だろう。

 その今浜村について、江戸中期に成立した地誌である『淡海木間攫(こまざらえ)』には「長浜町…古ハ今浜ト号セリ、豊臣秀吉公、長浜改名セシメラル」とあるように、改名したのは秀吉であることが、江戸時代以来言われてきた。ただ、「長浜」の地名の由来は、いま一つ明快ではないというのが歴史学の立場である。

 竹中半兵衛の子・重門(しげかど)が著わした秀吉の伝記『豊鑑(とよかがみ)』の「長浜真砂(まさご)」の項に、「君が代も我が世も千代に長浜の真砂の数の尽きやらぬまで」の歌が掲載されている。豊国神社南の「長浜開町四百年記念碑」には、これを竹中半兵衛の作として記すが、原本には「誰人の詠みしといふ事も忘れにけり」とある。「君が代」の「君」は織田信長と解せば信長の世が長く続くようにとも読めなくはないが、一般的には天皇と考えるべきであろう。読んだ人物が秀吉や半兵衛ではなく「詠み人知らず」ならなおさらだ。

 この歌は、湖岸の「真砂」の数が無数なように、末永い長浜の繁栄を歌ったものである。そう考えれば、「今浜」からの「長浜」への改名は、古代から現代まである瑞祥(ずいしょう)地名(キラキラ地名)の一つと考えるべきで、信長の「長」と考える必要は必ずしもない。我々は、この伝統ある地名がつくマチの繁栄を、文字通り無限に継続させる使命がある。ふと考えれば、再来年は開町450年の記念すべき年だ。

長浜開町四百年記念碑(南呉服町)

「湖北史記」の連載に当たって

 筆者は昭和61年に長浜城歴史博物館の学芸員として就職し、同館で展示・講演・調査研究活動を行なってきた。平成26年から3年間、同館の館長を務め、その後長浜市役所歴史遺産課で、文化財業務全般を担当してきた。今年3月、長浜市役所を退職したのを機に、「淡海歴史文化研究所」を立ち上げ、長浜市や米原市の歴史をやさしく、かつ史実に沿って深掘りする「湖北史記」を本紙に寄せることを思い立った。基本、2週間に1回のペースで、湖北史の読み直しを続け、歴史と現代社会の関わりを追求したい。

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2022年4月8日掲載)

掲載日: 2026年03月19日