前回に少し触れたが、今回は「加田(かだ)」と「神田(かんだ)」の違いの話をしたい。江戸時代を通して現在の長浜市加田(かだ)町・加田今町は、「加田」と表記されていた。遡って中世には、加田荘という荘園もあった。では、いつから神田(かんだ)パーキングエリアや神田まちづくりセンターでお馴染みな「神田」の地名が登場したのか。
明治22年(1889)の町村制施行段階で、加田・加田今の大字(おおあざ)は、現在の米原市宇賀野や長沢と同じく法性寺村(ほうしょうじむら)に編成された。しかし、明治30年(1897)になって、この2字は法性寺村から独立、神田村となった。これが、「神田」の字が使われた最初と考えられる。加田・加田今に音が通じ、しかもどちらかに重きをおいた感じではないことを理由に、「神田」の村名が選択されたという。以後、両大字(両町)を総称する地名として、現在まで「神田」の地名が使われてきた。
ただ、気になることがある、「加田」は「かだ」と読み、「神田」は「かんだ」と読む。これで、音が通じると言えるのだろうか?この疑問に答える文書が2通ある。一通は加田町の旧家に伝来した柴田勝家禁制で、賤ヶ岳合戦時の天正11年(1583)4月に、陣取・放火、それに木の伐採をしないと表明した文書である。宛名(あてな)は「菅田郷」とある。もう一通は、天正13年(1585)閏8月22日に、豊臣秀吉が佐和山城主の堀尾吉晴へ宛てた朱印状である。そこには、吉晴に預けられた秀吉直轄領(ちょっかつりょう)の場所として、朝妻・常喜などと並んで「かん田」の地名が見える。
この「菅田」も「かん田」も加田村・加田今村を指すことは容易に推察されるが、これらの表記からすれば、戦国時代には「加田」は「かんだ」と発音していたのではないか。実は、寛政4年(1792)に編まれた地誌『淡海木間攫(おうみこまざらえ)』にも、「加田」と書いて「かんだ」と唱えてきたとある。つまり、中世の加田荘、近世の加田両村とも、「加田」と書いて「かんだ」と発音していた可能性が高い。
中世・近世から「加田」を「かんだ」と読んでいた地域住民にとっては、「神田」は音も通じ、「神の田」で目出度い「神照」と同様な瑞祥(ずいしょう)地名で歓迎すべき命名だった。であれば、現在の「加田」の町名も、「かんだちょう」・「かんだいまちょう」と発音した方がいいのかもしれない。ただ、「そんな急に」という話なので、神田パーキングエリアに駐車した折などに、この話を思い出して頂ければと思う。
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神田パーキングエリア(下り)銘板
淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司
(滋賀夕刊 2022年6月2日掲載)




