【湖北史記 其の3】「乗合馬車」と「馬車道」

 4月21日付けの本紙で、東上坂町の古民家において、「馬車道の時刻表」が発見されたと報道された。冒頭に「乗合馬車時間及賃金表」と記されたこの看板は、杉材で縦39・7㌢、横96・5㌢、厚さ1・7㌢のもの。馬車の発車時刻と運賃が記されている。明治16年に開通した関ケ原・長浜間の鉄道は、明治32年に廃線となり線路が撤去され、東上坂・八幡中山(現在の分木町地点)間については、線路敷の直線道路に、明治35年から昭和初年まで「乗合馬車」が運行されていた(昭和19年から翌年まで一時復活している)。

 現在の分木町の柏屋老舗(和菓子屋)の場所が終点だったのは、大通寺東から北に上がる十里街道との交差点だったからである。同記事にもあったように、これまで「乗合馬車」は、東上坂・八幡中山間しか知られていなかったので、この看板の出現で春照(米原市)・東上坂間も運行していたことが確認できたことになる。さらに、この看板は「春照より長浜に至る」とあるなど、春照を起点にしているので、そこに設置された馬車駅に掲示されていたものと推定される。

 この「乗合馬車」については、片桐正二郎さんの『北國街道  今は昔  馬車道物語』(2000年刊)に詳しい記載がある。そこには、東上坂町の野村さん(今回、看板が発見された家)がこの馬車を経営しており、かつては道端や家の裏に馬小屋があったと記す。さらに、東上坂から今の三菱ケミカル滋賀事業所の敷地にあった長浜高等女学校へ、「乗合馬車」を使って通った田辺さんという女性の証言も載せている。

 当時の女学校は4年制で、彼女は昭和元年4月に入学して、昭和5年3月まで通ったというから、その頃までは馬車は運行し、その後にバスに取って替わられたのだろう。同書には野一色(米原市)の人が上坂まで歩き、そこから馬車に乗って、夏中さんに行ったという証言も紹介しているので、春照・東上坂間の馬車は運行していなかった時期もあったようだ。

 この「乗合馬車」が通った道を、今でも我々は「馬車道」と呼ぶ。正式な道路名ではないが、今も長浜市民には親しまれた名称だ。それは、この馬車が当時の長浜の人々にとって欠かせない乗物だったからだろう。市民の間で守り続けられてきたこの道路名は、長浜の「近代化遺産」として大切にしたいものだ。

 

馬車道を行く馬車「写真集・長浜百年」(長浜市刊)より

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2022年5月6日掲載)

掲載日: 2026年03月19日