国友鉄砲の創始は浅井氏

太田さん、「室町幕府説」を覆す

 鉄砲のまち、国友のルーツに新説—長浜市の学芸専門監・太田浩司さんは、このほど室町幕府からの発注を起源する説を覆し、地元の戦国武将・浅井氏が鍛冶を配置したことが創始とする歴史論文を発表した。

 これまでの研究では古文書「国友鉄砲記」の記述を元に、天文12年(1543年)、種子島に鉄砲が伝来した翌年、室町幕府、足利将軍家からの命により、刀鍛冶が多く存在した国友村で鉄砲作りが始まったとされ、さきのNHKの大河ドラマ「麒麟がくる」でもこの設定で描かれていた。

 しかし、太田さんはこの説だと「作り始めたのが早過ぎる」「全国に刀が1本も残っていない」などと疑問を抱き、古文書や史料を再検証。戦国時代、地元を治めていた浅井長政(1545〜73)が意図的に国友で鉄砲を作らせたことを明らかにした。

 国友村は浅井氏全盛の頃、小谷城の第二城下町だったとみられ、小谷道(現在の県道伊部・近江線)により、城との流通ルートが確立されていた。浅井氏は町場であった国友村に職人を集め、鍛冶集団を形成。小谷落城後は豊臣秀吉、石田三成らが「戦場になくてはならない武器」として鉄砲を大量発注。大坂の陣などでその威力を発揮し、勢力を伸ばすとともに、国友村も隆盛を極めた。

 太田さんは、大河ドラマ等の「物語」に対して、「歴史学者として、あえて学術論文に」して史実をまとめ、専門誌「銃砲史研究」(日本銃砲史学会)第391号に発表した。 

掲載日: 2021年02月26日