2026年7月10日
【湖北史記 其の50 】羽柴秀長と田上山城
2026年のNHK大河ドラマが「豊臣兄弟!」に決まった。少々気が早いかもしれないが、主人公となる秀吉の弟・秀長(長浜時代は長秀と言った)と湖北の関わりを数回に分けて紹介してみよう。まずは、賤ヶ岳合戦時の秀長の本陣である田上山城(たがみやまじょう)から。その城は、長浜市木之本町木之本・黒田にまたがり、黒田集落の西側にそびえる尾根上に展開する。木之本の鎮守である意冨布良(おおふら)神社から地蔵山を登って40分ほどの地にある。
賤ヶ岳合戦は天正11年(1583)の4月20・21日に羽柴秀吉と、柴田勝家が信長亡き後の織田家の主導権をめぐって争った合戦だ。秀吉が美濃大返しや七本鑓の活躍などで勝利したことは有名である。この合戦、あまり知られていないが籠城戦であった。合戦当日の一カ月あまり前から、両軍は木之本の宿場から、柳ヶ瀬の山中まで、陣城(じんしろ)と言われる戦闘用の城郭を築いて睨(にら)みあっていた。その数は主なものだけでも10を越える。その中、秀吉方の指令所が置かれたのが田上山城で、その城主は秀長であった。
城跡は土木工事の跡が非常によく残る。324㍍の頂上に主郭(しゅかく)をおき、その南北にも土塁と堀切(ほりきり)で囲われた曲輪が残る。東に延びる尾根にも曲輪が続き、北側に配された主郭から続く土塁は、この城が北側の敵、すなわち柴田軍に向け造成されたことがよく分かる。北側の曲輪の入口(虎口(こぐち))の前には、侵入を遮蔽(しゃへい)するように「かざし土塁」が築かれ、いわゆる「馬出(うまだし)」を構築している。実に城郭構造として高度なテクニックだ。
秀長はこの城砦に籠り、長浜城や木之本本陣にいる秀吉からの指示を、前線の大岩山城にあった中川清秀、岩﨑山城の高山右近、堂木(どうぎ)山城の山路将監(しょうげん)、東野山城の堀秀政らの武将に伝達し、全軍を統括した。そして、北国街道沿いの余呉小中学校付近には、堀と土塁を築かせて柴田軍の南進を防いでいた。
秀吉から秀長への指示は、4月3日付けの朱印状が有名で具体的である。相手が手を出すまで、足軽に至るまで兵を動かすことは厳禁であること、長期戦に持ちこめば必ず相手が痺(しび)れを切らすが、その時が決戦の時であること、秀吉は播磨へ毛利氏を牽制(けんせい)するため出陣するつもりであること、などが記される。最後の播磨出陣は実現しなかったが、柴田軍の動きを誘発させる戦略であったようだ。
実際、秀吉の言うように、柴田軍は一カ月余りの対陣に我慢できず、大岩山の中川清秀を奇襲した。これが、逆に全軍混乱を招き敗退する。その合戦を左右した前線基地として、秀長の田上山城は重要な城であった。
田上山城
淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司
(滋賀夕刊 2024年4月3日掲載)




