2026年7月17日

メロン「和夏」、5年目の自信作

糖度14〜15度、出来栄えに手応え、高月「ゴッパム」が販売

 障害者就労支援B型事業所「ゴッパム」(高月町横山)が農福連携で栽培する高級マスクメロン「和夏(わか)」の販売が18日から始まる。栽培は今年で5年目。これまで積み重ねてきた経験を生かし、糖度や見た目ともに過去最高クラスの出来栄えに仕上がったという。

 同事業所では、利用者と職員がビニールハウスでアールスメロンを栽培。地域の生産者から栽培技術の指導を受けながら、一株一果栽培やミツバチによる自然交配など、本格的な方法で育てている。利用者は誘引や受粉、収穫などの作業を担い、農業を通じた就労支援に取り組んでいる。

 栽培を担当する藤本和夏子社長は「最初の頃は教わった通りに作業するだけで精いっぱいだったが、5年目になってようやく『あの時教わったことは、こういう意味だったのか』と点と点がつながった感覚がある」と話す。今年は指導役から「今年は自分でやってみ」と任される場面も多く、自ら判断して管理する機会が増えたという。

 害虫の発生時期や水管理なども経験を重ねる中で感覚が磨かれ、「今年は虫が出たらすぐ対応しなければ後で大変になることや、水のタイミングなどが分かるようになった。毎年『大変』という思いが強かったが、今年はメロン作りそのものを楽しめた」と笑顔を見せる。

 今年は6月の短い梅雨で日照時間にも恵まれ、収穫前の糖度検査では14〜15度を記録。販売時にはさらに糖度が高まる見込みという。これまで課題だった果実表面のネット模様も湿度管理を見直したことで、美しく仕上がった。

 藤本社長は「糖度だけでなく、見た目も自信を持って届けられるメロンになった。過去一番の出来と言っていい」と胸を張る。

 一方で、資材価格の高騰は経営を圧迫しており、箱や包装フィルム、ビニールなどの価格上昇を受け、価格は前年より約300円値上げした。それでも「利益を考えれば厳しいが、多くの人に食べてもらいたいという思いから、できるだけ価格は抑えた」という。

 商品名の「和夏」には、厳しい暑さの中でも、このメロンを食べて穏やかな気持ちで夏を過ごしてほしいとの願いを込めた。贈答用として購入する人も多く、「農福連携の取り組みとともに、味にも満足していただけると思う。ぜひ味わってほしい」と話している。

 販売は18日から31日まで同事業所直売所(高月町横山298)で。価格は1玉3000円(税込)。約500玉を販売する予定。

2026年7月17日

【湖北史記 其の54 】紫式部と深坂越え

 紫式部は、長徳2年(996)、父・藤原為時(ためとき)が越前国の国司(こくし)に任じられたことから、父に従って任地に赴いた。同年の秋のことだった。大河ドラマ「光る君へ」の5月26日の放送で、この「旅立ち」が描かれた。その中で、琵琶湖を船で行く場面、塩津湊(みなと)の風景、深坂(ふかさか)越えする姿も描かれた。

 本紙「新春特大号」でも、京を出て逢坂山(おうさかやま)を越え、大津の打出浜から湖上を、さらに江越(ごうえつ)国境を過ぎ越前国府に至る紫式部の足取りをたどった。船は高島郡の沖合を行き、塩津湊に上陸することになる。そこから深坂峠を越える塩津街道で越前国内へ入ったが、式部はここで歌を詠む。「しりぬらむ 往来(ゆきき)に慣らす 塩津山 世に経(ふ)る道は からきものぞと」。

 彼女の歌集「紫式部集」に載るこの歌の背景には、塩津山(深坂)を越える塩津街道を、多くの人が往来していたことがある。身分の低い輿(こし)の担ぎ手が、「ここは難儀な道だ」と話すのを聞いて詠んだ歌とされる。担ぎ手たちは塩津街道の往来に慣れているだろうが、世渡りの道は「つらい」ということを知っているだろうか、と言った意味であろう。深坂越えの難所を、人生の困難に例(たと)えたものだが、意気揚々と越前に赴くドラマとは少々事情が違うようだ。

 塩津街道は、琵琶湖北部の要港・塩津と敦賀間の峠道で、畿内と北陸を結ぶ最短ルートとして古代から重要視されてきた。現在の国道八号線に沿ったルートである。ただ、国道は新道野(しんどうの。敦賀市新道野)を経由するが、これは戦国時代の弘治年間(1555~58)頃に開発された道。それ以前は、奈良時代から深坂越えが使われてきた。「万葉集」の笠金村(かさのかなむら)の和歌に「塩津山 うち越えゆけば 我が乗れる 馬ぞ爪(つま)づく 家恋(こ)ふらしも」とある。深坂越えの難所と都を想う気持ちが記される。

 深坂越えは現在も、滋賀県側から行くと、新道野集落直前に国道八号線より西へ入る深坂地蔵への参道としてたどることができる。平清盛が塩津と敦賀間の運河を造ろうとしたが、途中で大きな岩にぶつかり計画を断念した。その岩の下から現れた地蔵を祀(まつ)った堂が今も建ち「堀止(ほりどめ)地蔵」とも呼ばれる。地蔵堂周辺の風景は、今も古道を彷彿(ほうふつ)とさせる。地蔵からしばらく行くと峠に至り、坂を下って敦賀市追分(おいわけ)に至ることができる。その間には、式部や金村の和歌を記した説明板も建つ。街道は敦賀の町に入る前の道口(みちのくち。敦賀市道口)から、木ノ芽(きのめ)峠か山中峠を越え、越前国府があった武生に向かう。ドラマでは、敦賀の松原客館(きゃっかん)に先に訪れていた。式部が通った街道をたどりつつ、平安貴族の旅を追体験するのも楽しい。

深坂峠(越前側から近江側を見る)

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2024年5月28日掲載)

2026年7月17日

【湖北史記 其の53 】伊香郡古橋村と秀長(長秀)

 2026年のNHK大河ドラマ主人公に決まった、秀吉の弟・秀長(長浜時代は長秀と言った)と湖北の関わりの4回目である。

 前回、長浜市木之本町黒田には、初期の秀長文書が二通伝わることを述べたが、同町古橋の高橋家文書(現在は長浜市長浜城歴史博物館蔵)にも、秀長文書が一通伝来する。「羽(羽柴の略)小一郎長秀」と署名し「花押」を据え、淡路・左京ら古橋村の農民代官に宛てたものである。天正3年(1575)11月11日付けで出されている内容は、農民代官たちの管轄範囲が250石の土地であること、代官たちは「政所(まんどころ)」と呼ばれていたこと、さらに田地用水の維持管理費は、代官収入の一部で賄(まかな)うことが記されている。

 秀長の兄・秀吉が北近江の統治者となってから三年、この時期には長浜城も完成し、羽柴兄弟も同城へ入城した頃である。地域の村々の統治も、その村の実情に応じて体制を整えていたことが、この文書から伺える。前回紹介した黒田村の例もそうだが、伊香郡中央部に秀長文書が多く残るのは、その付近の統治を、秀長は秀吉から任されていたからかもしれない。

 実は、この高橋家文書には、秀吉文書も伝来している。天正元年(1573)8月11日のもので、「ふるはし郷」の百姓中に対して、黒田村同様に早速の「還住(かんじゅう)」を命じている。信長方と浅井氏との戦いで、伊香郡の村人たちは戦乱に巻き込まれないためにも、山奥などに逃れていた。ここで秀吉は、浅井氏との戦乱が伊香郡に及ばなくなったのを確認して、村に帰るように命じている。

 小谷城籠城中の浅井長政は、阿閉貞征(さだゆき)・貞大(さだひろ)が守る山本山城を、本城と共に重要拠点としていた。この山本山城が浅井方として健在な限り、南から小谷城を攻める信長方が、小谷城の搦手(からめて。北側)に回ることはなく、かつ伊香郡も浅井領として確保できていた。しかし、山本山城が同年8月8日に陥落する。本書は3日後の11日付けなので、山本山城の落城を受けて、伊香郡の諸村が信長や秀吉の占領下となったことを示す。逆に、それは信長方と浅井氏との戦闘が、伊香郡ではなくなったことを示すと理解できる。

 古橋村の高橋家文書には、天正6年(1578)2月23日付けの一柳(ひとつやなぎ)直次の書状が残る。この時、秀長・秀吉は中国攻めに出向いていた頃。一柳は秀吉の家臣で、文中から但馬国(兵庫県北部)に出向いた高田久三(きゅうぞう)に代わり、古橋村の代官であったと読める。古橋村の統治は、すでに秀吉家臣の手に渡っていた。秀長が伊香郡諸村に責任者として臨んだのは、秀吉の長浜領統治のごく初期のみだったと見るべきだろう。

木之本町古橋(もと伊香郡古橋村)の虫送り行事(平成26年8月17日)

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2024年5月14日掲載)

2026年7月17日

【湖北史記 其の52 】伊香郡黒田村と秀長(長秀)

 2026年のNHK大河ドラマ主人公に決まった、秀吉の弟・秀長(長浜時代は長秀と言った)と湖北の関わりの3回目である。

 長浜市木之本町黒田には、初期の秀長文書が二通伝わる。一通は「木下小一郎長秀」と署名し「花押(かおう)」を据え、「黒田郷惣百姓中」に宛てたもの。「花押」は図案化したサインである。8月16日付けで出されている内容は、「元亀(げんき)争乱」により他所へ逃れていた村人たちに、村へ帰るように促したもの。「還住(かんじゅう)」したら安全な生活を保障するとも述べられている。この書状には年号がないが、「還住」が問題になっていることから、伊香郡での戦乱が終息した小谷落城の年、天正元年(1573)のものと見て間違いなかろう。

 元亀元年(1570)から始まった浅井長政と織田信長の戦い「元亀争乱」は、湖北の地を焦土と化した。特に伊香郡は、元亀三年(1572)から数回にわたり、信長が焼き討ちしており、現在もこの地域の仏像は難を逃れるため、川に沈めたとか、土に埋めたという伝承がある。有名な向源寺(渡岸寺)十一面観音立像の観音堂・収蔵庫の前には、「御尊像埋伏之地」と記された石碑が建てられている。また、西黒田安念寺の「いも観音」は、元亀争乱において住民が仏たちを門前の田の中に埋めて隠したという。比叡山焼き討ちの時と伝えるが、元亀争乱中のことと理解していいだろう。秀長はこの文書が示すように、新たな湖北の統治者となる秀吉の重臣として、戦乱で荒廃した地域の復興を最前線で指示していた。

 もう一通の秀長文書は、2月4日付けで、やはり「小一郎長秀」と署名し花押があり、「くろた村名主百姓中」と宛名がある。黒田村から仕事内容不明ながら土木工事の人夫を調達するので、戸数90軒の内、半分は免除するが、45軒から人を出して集落内の「小原」に明日集結するように命じている。もし集まらなければ「成敗(せいばい)」するという厳しい文言も付いている。この土木工事は街道の道普請、寺社の復興など様々なことが考えられる。あるいは、長浜城の普請工事であったかもしれない。だとすれば、天正2年か翌年のものと考えていいだろう。本書で示された集合場所「小原」の地名は、黒田本郷集落の西、国道365号線沿いに、今も小字(こあざ)として現存している。

 北近江には400近くの村があったと思われるが、秀長の文書が伝わったのは、他に同郡古橋村のみである。その理由は不明だが、あるいは黒田村周辺の伊香郡の統治を、秀吉は秀長に託していたのかもしれない。30歳半ばの秀長の姿を伝える稀有(けう)な文書2通である。

 

小字「小原」から見た黒田の集落(右後の山は田上山城跡)

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2024年5月1日掲載)

 

2026年7月17日

金魚すくい選手権開催

米原で参加募集、旭堂さん講談も

 「伊吹山杯 金魚すくい選手権大会」が8月1日に米原市役所本庁舎のコンベンションホールで開かれる。県予選を兼ねており、各部門の上位10人は全国大会への出場権を獲得できる。

 「金魚すくいのまち」として知られる奈良県大和郡山市では毎年、全国金魚すくい選手権大会が開かれている。米原市内でも2024年から開催されており、出場者は初回が223人、昨年が161人だった。

 3回目の今年は当日午前9時半から練習、午後0時45分に開会式があり、午後1時から競技が開始される。大和郡山市や米原市、長浜市が「豊臣兄弟!」ゆかりの地のため、競技終了後の午後3時半から講談師の旭堂南風さんの講談「羽柴兄弟と長浜」がある。表彰式は午後4時。

 小中学生と高校生以上の一般の部があり、各部で3分間に1枚のポイで何匹すくえるかを競う。チャレンジ回数は3回。県外からの出場も可。定員300人。各部門上位10人が8月23日に大和郡山市で開かれる全国大会への出場権が獲得できる。参加無料だが、練習のみ1回150円・3回400円。収益の一部は伊吹山植生プロジェクトへ寄付される。

 申し込みは今月21日までに専用フォーム(https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSde3g80_NkBX2Bi9sAvvkRWUf5NcesqSuZ8P9POiU4V86h62A/viewform)から。問い合わせは同所☎(51)9082。

2026年7月16日

米原中サッカー春夏連覇挑む

全国目指し 部員14人で最後の総体

 春の県大会を初めて制した米原中学校サッカー部が連覇を目指し、18、19日の両日に開かれる県中学校夏季総体地区予選にのぞむ。春優勝の勢いそのままに全国大会出場を目標に掲げる一方、3年生12人が引退する総体後には部員不足から休部となる可能性もあり、現在の14人で戦える最後の大会となる。選手たちは「この仲間で全国へ」という強い思いを胸に集大成の戦いへ挑む。

 同部は5月に開催された県中学校春季サッカー選手権大会で55チームの頂点に立った。チームを指導する外部指導員の林桂衣さん(40)は、その強さについて「選手たちの気持ちの強さが一番」と語る。昨年12月の冬の県大会では初戦敗退を喫し、悔し涙を流した。その経験を糧に、冬場はそれぞれが自主的に走り込みや体力づくりに励んだという。「自分たちで考えて取り組んできた、その積み重ねが最後まで走り切る力となり、春の優勝につながったと思います」と林さん。選手たち個々の成長がチーム力を押し上げた。

 夏季総体では米原、彦根、愛知、犬上地区のチームによる地区予選を戦う。通常2枠の県大会出場枠に加え、米原中が春の県大会優勝校のためプラス1枠が与えられており、このブロックから3チームが県大会へ進出する。今月27、28日に行われる県大会には16チームが出場し、上位2チームが近畿大会へ進出。さらに近畿大会で5位以内に入れば、全国大会への切符を手にすることができる。

 チームを率いる林煌友主将(14)は「目標は県大会の優勝、そして全国大会出場」と力強く宣言。「そのためにはパス回しやトラップなど基本を徹底して、どんな相手にも自分たちのサッカーができるよう準備したい」と意気込みを語る。

2026年7月16日

AIは政治的に中立か?

滋賀大で企画展、人との違いも

 人工知能「AI」と人間との違いやAIが政治的に中立なのかなどに迫った研究成果の企画展「AIのキモチ」が13日から、滋賀大学彦根キャンパスの総合研究棟1階で始まった。監修者でデータサイエンス学部の奥村太一准教授は「人間とAIとの似た点や違う点をこの企画展で紹介したい」と話している。

 対話し、調べものをし、アイデアを得るなど人間社会に必要不可欠な存在になったAIが、どのように言葉を理解し、人間の世界を見ているのかについて、奥村准教授と南條浩輝教授があらゆるデータを活用して分析。AIの思考や判断の仕組みについて2期に分けて紹介していく。

 第1期の「ふるまいを観察する」ではAIと人間との比較として、外向性(社交的)・神経性傾向(不安やストレス)・協調性・誠実性・開放性(好奇心)の5項目を探るため、GPTとGeminiのAIと、各世代の人間に同じ質問で調査。その結果、AIが5項目とも人間の平均値と似ている一方、外向性や開放性、協調性が人間よりも少し高い傾向があることがわかった。

 AIの政治的中立についての調査では、2024年時の衆院選での東大と朝日新聞との世論調査の回答データを分析。12項目の回答から、経済・税負担、同性婚や夫婦別姓など社会的自由、積極財政、防衛強化の4点についての「考え方の軸」を整理した。その結果、12項目の回答のうちAIは夫婦別姓や同性婚については日本人の有権者の平均より強い賛成を示した。また4点の軸については社会的自由を尊重する一方で、防衛強化に慎重な立場を示していることがわかった。

 政治的中立の調査結果について、奥村准教授は「日本人の平均的な考えと比べて違いがあるため、開発企業や従業員の考え方がAIに反映されている可能性がある。『小さな政府』に否定的なヨーロッパの価値観があるのかもしれない」と指摘する。

 このほか、NTTドコモが開発した絵文字をAIが読み取れるのかについても調査。「うれしい」や「喜び」の絵文字はポジティブな軸に、「怒り」や「悲しみ」はネガティブな軸に配置されたデータを紹介している。

 奥村准教授は「AIは人間に迎合的で、心地よい回答しかしない。人間社会では否定的な意見を求める場合もあり、個性豊かな人と個性があまりないAIといった違いもある」と説明している。

 第1期の開館日時は9月30日までの平日午前10時から午後4時。入場無料。会場にはAIが作った企画展の動画やAIに関する書籍・DVDなどもある。ギャラリートークは8月4日午後0時10分から。

(滋賀彦根新聞)

2026年7月16日

稲枝駅西側に「ふとんの西川」新工場

建設計画、4万平方㍍に生産と物流拠点

 JR稲枝駅西側の彦富町のエリアに、寝具メーカー「西川」(本社・東京都中央区)が工場の建設に向けた準備を進めていることがわかった。約4万平方㍍の敷地に、生産と物流機能を備えた新たな拠点「仮称・西川西日本センター」を整備する計画。今回の工場建設が実現すれば、これまで大規模な開発が進まなかった稲枝駅西側の土地利用が大きく前進することになる。

 建設予定地はJR稲枝駅から西へ約200㍍方面の私有地。工場には生産や物流エリアのほか、交流スペースなども設けられる計画となっている。造成工事の後、来年夏頃から建築工事を開始し、2028年中の完成を予定しているが、原材料や資材の調達状況などによって工期が変更となる可能性もある。

 西川は460年以上の歴史を持つ老舗寝具メーカーで、創業は永禄9年(1566年)。近江の蒲生郡で生まれた初代・西川仁右衛門が18歳で商いを始め、天正15年(1587年)には八幡町(現在の近江八幡市)に本店「山形屋(現・西川甚五郎本店)」を開設した。現在は東京都中央区に本社を置くが、創業の地が滋賀県というゆかりを持ち、近江商人の流れをくむ企業として知られている。またこれまでにも、公益財団法人を通じて県内の教育機関への寄付や、ふるさと納税などを通じて地元に貢献してきた。

 計画地を含む稲枝駅西側エリアは、市が長年にわたり活用策を模索してきた地域だ。これまで、県立高等専門学校や専門職大学の誘致などが検討されたものの、いずれも実現には至らなかった。

 稲枝駅周辺では駅東側で住宅開発が進む一方、西側は広大な未利用地が残されてきた。もともと農地だった計画地は、昨年7月に建物の建設が可能な市街化区域へ編入され、開発条件が整った。土地の取得も進められており、周辺住民を対象にした説明会もすでに開催されている。

 新しい工場は生産と物流を一体化した西川の中心拠点になるとみられ、地域経済への波及効果や雇用の創出にも期待が集まる。市内では企業立地による産業基盤の強化が課題にもなっており、西川の進出は、市全体の新たな振興につながる動きとして注目されそうだ。

(滋賀彦根新聞)

2026年7月15日

見学・体験で「ものづくり」の魅力発信

長浜・米原6社が公開イベント

 普段は立ち入ることのできない製造現場を子どもや学生に開放する「しがオープンファクトリー」が8月19、20の両日、長浜、米原両市で開かれる。県内22社が参加するイベントのうち、湖北会場には両市の6社が名を連ねる。工場見学やものづくり体験を通して地域産業の魅力を伝え、将来の担い手育成や企業の認知度向上につなげる狙いだ。

 県と湖北地域雇用対策協議会が主催し、長浜、米原両市が協力する。県は、企業単独ではなく地域内の企業が連携して工場を公開する「地域一体型オープンファクトリー」を推進しており、本年度は長浜・米原地域と湖南地域をモデル地域に位置付けて取り組みを展開している。

 背景には、製造業の人材不足や地域産業の担い手確保という課題がある。工場を開放し、実際に見て、触れ、体験してもらうことで、子どもや若者にものづくりの面白さや地域企業の技術力を知ってもらう。企業にとっても働き手のモチベーション向上や認知度向上、企業間連携、新たなビジネスチャンスの創出など多様な効果が期待されている。昨年度は県内で延べ約3500人の応募があり、好評だったことから、今年度は参加企業を22社へ拡大して開催する。

 長浜・米原編は、19日は扶桑工業(長浜市)、利高工業(米原市)、ワボウ電子(長浜市)が参加する。

 扶桑工業では工場見学に加え、ひこにゃんメダルの鋳造を体験。利高工業では3DCADを使ったキャラクターキーホルダー作りやペン立ての組み立て、クイズラリーを実施する。ワボウ電子では電子基板を製造するクリーンルーム設備の組立工程やバイオトイレの組立、近江海老の養殖工程などを見学できる。

 20日は明文舎印刷商事(長浜市)、大塚産業マテリアル(長浜市)、三友エレクトリック(米原市)が会場となる。明文舎印刷商事では印刷工場見学とオリジナルメモ帳作り、大塚産業マテリアルでは自動車内装品工場の見学と不織布の実験、三友エレクトリックでは工場探検や製造現場見学、クイズラリーなどを実施する。

 対象は小学生から大学生まで(一部企業で異なる)。定員は8人〜20人。参加無料で事前予約制。申し込みは7月17日から8月2日まで受け付け、定員を超えた場合は抽選となる。JR長浜駅、JR米原駅から各工場への送迎バスも運行する。

 申し込みは予約フォーム(https://e-form.jp/shiga-openfactory/)。

2026年7月15日

防災力向上へ備え学ぶ

自治会長ら90人、実例交え組織づくり

 浅井福祉の会(伊藤英司会長)は12日、七尾まちづくりセンターで防災講演会を開き、自治会長や自主防災組織、民生委員・児童委員、赤十字奉仕団員、地域住民ら約90人が参加した。

 防災アドバイザーの安原秀男さんが、地域防災のあり方や災害への備えをテーマに講演。姉川地震や伊勢湾台風、阪神・淡路大震災、能登半島地震、2024年の米原市土砂災害などを例に被害状況を説明したほか、日本列島周辺のプレートの仕組みや浅井地域のハザードマップを基に想定される水害を解説した。また、気象庁が5月から運用を始めた警戒レベルに対応する新たな防災気象情報についても説明した。

 その上で、地域のリーダーである自治会長らに向け、自治会名簿の整備や防災マップの作製、避難訓練の実施など、平時からの備えの重要性を強調。三田、大路、西浅井中の各自治会の事例を交えながら、防災体制づくりの進め方を解説した。また、長浜市の草の根防災体制育成事業補助金を活用した車いすの整備も提案した。

 このほか、長浜市防災危機管理課が草の根防災体制育成事業補助金を説明し、防災ボランティア「ひでよし隊」が非常時のトイレ対策を紹介。浅井赤十字奉仕団は炊飯袋を使ってご飯とカレーを調理し、参加者に配布した。

 参加者からは「災害時の連絡網の確立や、LINE、メールを活用した情報伝達体制づくりに取り組みたい」「自治会の名簿や台帳作成を進めたい」などの声が聞かれた。

2026年7月14日

六道絵で死後の世界たどる

22日から曳山博物館 「地獄編」おばけやしきも

 曳山博物館は22日から9月13日まで、夏季企画展「めぐり、うつろう 輪廻の世界—通念寺本 六道絵—」を開く。長浜に伝わる六道絵などを展示し、死後の世界観や因果応報の思想を紹介する。会期中は関連企画として「おばけやしき」や講演会、ナイトミュージアムも開催し、夏休み期間の来館を呼びかける。

 企画展では、現世での行いによって死後に生まれ変わる六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の世界を描いた「通念寺本 往生要集十界絵相」19幅をはじめ、「恵心僧都像図」、個人蔵の「二河白道図」「十界図」を展示する。かつて寺院で行われた「絵解き」の文化にも触れ、先人が抱いた死後の世界観を紹介する。

 関連事業では、8月2日と23日に展示説明会、同15日に講演会「湖北長浜に伝来した国宝の写し〜通念寺本六道絵を読み解く」を開く。いずれも午後1時半から。

 また、7月25日から8月30日まで、小中学生向けの「おばけやしき 〜地獄編」を開催。ダンボールなどで六道の世界を立体的に表現し、博物館に親しむきっかけづくりを目指す。期間中には、おみくじやマグネット作りのワークショップ(8月8日、22日)や、夜の曳山を見学できるナイトミュージアム(同8日、22日)も予定している。

 開館時間は午前9時から午後5時まで。月曜休館。入館料は大人600円、小中学生300円で、長浜市・米原市在住の小中学生は無料。

 

 

2026年7月13日

華やかな舞の競演、本堂彩る

東京・葭町と金沢の芸者衆6人、佛厳寺で

 東京・日本橋の花街「葭町」と金沢・西茶屋街の芸者衆による舞台「長浜の夕べ 四季のいろどり」が11日、室町の佛厳寺本堂で開かれた。東京と金沢から訪れた計6人の芸者衆が舞や笛演奏を披露し、来場者を優雅な芸の世界へ誘った。

 催しを企画したのは、東京都内でそば店などを展開するかめやグループ代表の荒川雄行さん。佛厳寺の藤濱晃彰住職が長浜へ戻る前に荒川さんの会社で勤務していた縁から実現した。藤濱住職は「本堂で東京や金沢の芸者衆が舞を披露する機会は大変珍しい。ご縁があって実現した催しを地域の皆さんに楽しんでいただきたかった」とあいさつした。

 荒川さんは、藤濱住職が会社員時代から誠実な人柄だったと振り返り、「僧侶として修行を続けながら仕事にも真摯に取り組んでいた。こうして再びご縁をいただき、このような会を開けたことをうれしく思う」と語った。

 第1部では「初春」「花見踊り」「八重一重」など、第2部では笛演奏「月」や「金沢の四季 夏、秋」「黒田節」などを披露。最後は東京・葭町と金沢・西茶屋街の芸者衆が合同で「さわぎ」を舞い、盛んな拍手を浴びた。

 トークタイムでは、流派の違いについて「家庭ごとにカレーの味が違うようなもの」とユーモアを交えて紹介。それぞれの芸を尊重しながら一つの舞台をつくり上げる魅力を語った。

 長浜で芸者衆の舞に触れる機会は少なく、来場者は伝統芸能ならではの優雅な所作や息の合った舞に見入っていた。

 

2026年7月13日

長浜市議選、29人の激戦幕開け

長浜市内に設置されている選挙ポスターの掲示板(候補者の1人は選挙ポスターを制作していない)

 

 任期満了に伴う長浜市議選は12日告示され、定数22に対し29人が立候補を届け出た。7超過の少数激戦となり、19日の投開票に向け選挙戦がスタートした。

 顔ぶれは現職18人、新人9人、元職2人。党派別では無所属24人、日本共産党3人、公明党1人、日本維新の会1人で、女性候補は5人となった。

 候補者は届け出を済ませると市内各地で第一声を上げ、有権者に支持を訴えた。人口減少対策や若者定住、地域経済の活性化をはじめ、子育て・教育、福祉、地域医療、防災、公共交通の充実などを掲げるほか、市政運営や財政の在り方を争点に据える候補もあり、それぞれ地域の課題を示しながら論戦を展開している。

 また、告示日には複数の政党所属の国会議員が長浜入りし、街頭で候補者への支援を呼びかけるなど、各陣営は序盤戦から支持拡大に向けた運動を本格化させた。

 選挙人名簿登録者数(11日現在)は9万1307人で、内訳は男性4万4271人、女性4万7036人。期日前投票は13日から18日まで、市役所本庁や北部合同庁舎、各分庁舎、イオン長浜店などで受け付ける。

 

※届け出順 ※年齢は投開票日(19日)時点

2026年7月10日

【湖北史記 其の51 】上坂氏と羽柴秀長(長秀)

 2026年のNHK大河ドラマ主人公に決まった、秀吉の弟・秀長(長浜時代は長秀と言った)と湖北の関わりの続きである。坂田郡西上坂村(西上坂町)の国衆(くにしゅう)・地侍(じざむらい)であった上坂氏は、浅井氏の家臣から秀吉に従い、さらに秀長に配属された。その上坂家に伝来した「上坂家文書」(西上坂町蔵)110点は、長浜市指定文化財となっている。その中には、秀長からの文書が実に10通と大量に含まれる。

 上坂氏は浅井氏が台頭する以前から、守護家である京極氏の家臣で、その執権的立場となり湖北を統治した名族である。姉川の用水管理に大きな権限を持ち、左岸を灌漑する郷里井(ごうりゆ)の代表者と見なされていた。右岸を代表する三田村氏と合戦に及ぶこともあった。上坂景信、その子・意信(おきのぶ)の時代には、浅井久政や長政からの文書が残り、その家臣であったことが知られる。

 浅井氏が滅亡した後、秀長に仕えてからは、秀吉の中国攻めに主君と共に参陣し、丹波国(京都府と兵庫県にまたがる)から但馬国(兵庫県の中北部)にかけて活動していたことが「上坂家文書」から読み取れる。但馬国の毛利氏勢力を掃討し、竹田城(兵庫県朝来(あさご)市)に入っていた秀長から、天正8年(1580)10月18日、300石の領地を与えられた。この点からすると、毛利方の拠点である出石(いずし)城(兵庫県豊岡市)の攻略にも、上坂意信は戦功をあげたものと見られる。

 さらに、この年前後の10月10日に出された秀長書状によれば、但馬国の隣国である丹波国福知山において、秀長家臣の領地や俸禄を小堀正次の命に従って配分するように命じられている。上坂氏が秀吉軍(信長軍)の占領地において、年貢を収納するなどの財政を担当していたことが知られる。また、その上司として小堀正次がいたことは注目していいだろう。正次は坂田郡小堀村(小堀町)出身で遠州の父である。正次はこの後も、秀長の宿老(しゅくろう。江戸時代の家老)として、その政権中枢にいた。

 上坂氏は秀長が没した天正19年(1591)以降も大和郡山に留まった。秀長の養子秀保(ひでやす)が死去した文禄4年(1595)以後は秀吉直臣となり、大和国や紀伊国で1千石を与えられたことを示す秀吉朱印状も現存する。1千石は大名とは言えないが、秀吉家臣のなかでも大身(たいしん)と言えよう。慶長5年(1600)、大和郡山城主の増田長盛は西軍についたので、城は一時廃城となった。これを機に、上坂意信の子・正信は西上坂村に戻り帰農した。その屋敷跡は今も西上坂町に残り、土塁や堀跡が残っている。

上坂氏の屋敷跡(長浜市西上坂町)

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2024年4月16日掲載)