「其の39」でも紹介したように、菅浦郷土資料館(長浜市西浅井町菅浦)での特別企画展で、国宝「菅浦文書」が今月12日まで70年ぶりに里帰り展示されいる。
同文書は、西浅井町菅浦に伝来した共有文書で、鎌倉時代より江戸時代に至る総数1281点を数える。大正5・6年(1916・17)に、菅浦に伝来した「開けずの箱」から発見されたとするの通説だが、文書群は明治時代に村人によって目録が作られており、「開けずの箱」ではなく、他村の者には見せない「開けない箱」であったのが真相である。
菅浦文書(65冊)と菅浦与大浦下庄堺絵図(1幅)から構成され、昭和51年に国の重要文化財に指定、平成30年に日本の村落文書としては初めて国宝となった。所蔵は、菅浦の氏神・須賀神社の名義となっている。
この特別企画展で展観されるのは2点。その内の一点である「菅浦惣庄置文(そうしょうおきぶみ)」を紹介しよう。文書の大きさは縦27・6㌢、横45・4㌢。寛正2年(1461)7月13日付けでの村の掟書(おきてがき。置文)である。現在の自治会規則と思ってもらえればいい。中世の菅浦では、20人の乙名衆(おとなしゅう。責任者)を中心に、高度な自治を保っていたことが知られる。それは、数10通現存するこの村掟に象徴的に表われる。
この村掟では、村人を断罪する場合は、証拠により冤罪(えんざい)を防ぐべきことや、親の罪を子に負わせることがないよう、縁座(えんざ)の否定が決められる。現在の法に照らしても遜色ない法理念が村落レベルで決められていた。そもそも、村(現在の自治会に相当する)が、犯人を捕縛する警察権や、それを裁く裁判権、さらには立法権を持っていたことは驚きである。中世の村は小さな国家であったとされる所以(ゆえん)である。
ここでは、盗人を裁く時は、証拠をもって行なうよう述べるが、当時の村では、菅浦と大浦との裁判でも行なわれたように、湯起請(ゆぎしょう。熱湯中においた石を取って、手の火傷(やけど)の具合を持って判決を下す裁判)など、現在からすれば非科学的な手法で裁判の勝敗を決していた。証拠をもって裁判を行なうという当然の一文ではあるが、中世村の法律としての先進性を見逃してはならない。
中世の村は、このように警察権や裁判権を持つ「自検断(じけんだん)」の村であったが、一方で自分の村は自分で守る必要がある「自力救済(じりききゅうさい)」の過酷な状況にもあった。つまり、武力も所持し自衛権を行使していたのである。大浦との堺争いをめぐる武力衝突は有名である。菅浦文書を見学しながら、中世の村落自治の過酷さにも思いを馳せて欲しい。
菅浦の四足門(東門) 自衛権を示す象徴(寿福滋氏撮影)
淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司
(滋賀夕刊 2023年11月7日掲載)