2026年5月29日

【湖北史記 其の33 】長浜城石垣の発掘

 令和元年8月9日、長浜市歴史遺産課は、同市指定遺跡となっている長浜城跡の豊公園から、豊臣期の石垣を発掘したと発表した。この発掘は、豊公園再整備にともなう試掘調査の一環で、九ヶ所の発掘を行なっていた一ヶ所から出土したものであった。場所は豊公荘北、千鳥破風(ちどりはふ)が4面の屋根にのる東屋(あずまや)の北西に当たる場所で、発掘範囲は南北2㍍・東西5㍍、地表下約1㍍の遺構であった。

 この遺構から4㍍〜5㍍の長さで並ぶ石列が発見された。石は東西に7石、東端で南に折れているのが確認され、一石の一辺の大きさは80㌢から50㌢大だった。周辺には「栗石(くりいし)」と言われる裏込め用の小石が散乱しており、おそらく高く積み上げられた石垣の根石(ねいし)部分で、上部は彦根築城に持ち去られた可能性が高い。

 出土した石列の石は、全体に江戸時代のそれよりは小ぶりで、かつ大きさが不揃いの面があること、矢穴(やあな)技法(楔(くさび)を使用して石材を割る技法)が使われていないこと、などから長浜城40年の歴史の中でも、天正元年(1573)から築城を開始した初代城主の秀吉段階か、天正13年(1585)からの第三代城主の山内一豊段階の石垣の一部と推定された。

 私は、一豊入城に当たり、本丸・二ノ丸付近は、使用しなかったと考えている。秀吉の領地高は12万石と言われるが、一豊の石高はわずか2万石である。この石高であれば、大規模な城郭を維持することが出来ず、三ノ丸に御殿を置くのみだったと考えている。その城主御殿の場所は「伊右衛門屋敷」との地名が残る、駅前の「サーパス長浜豊公園」付近とも思われる。「伊右衛門」は一豊の通称名であった。

 令和元年の発掘は、長浜城遺跡の第313次調査であったが、長浜城の発掘で、石列が発見されたのは、今回が初めてではない。昭和44年の豊公園整備で行なわれた第1次調査でも、現在の公園管理事務所のすぐ南側で、東西25㍍にわたり石列が確認された。この石列は西端から5㍍の所で北へ折れ、さらに東に20㍍続く形であった。この折れは横矢(よこや)掛かりと言って、石垣を登る敵を側面から攻撃するための仕掛けである。石の大きさは令和元年発掘の石より大きく一辺1㍍以上あるので、慶長11年(1606)に、第4代城主の内藤信成が入城した際に改築された石垣ではないかと考えられる。

 長浜城の遺構は、江戸時代の初めに取り壊されたので殆(ほとん)ど何も残らない。残っているものと言えば地下の遺構のみであるが、令和発掘の石列は、初代城主の秀吉に触れられる遺跡発見として貴重なものであった。

令和元年に発掘された長浜城本丸石垣根石(東から撮影)

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2023年8月7日掲載)

2026年5月29日

【湖北史記 其の32 】長浜城大手門跡と斜めの敷地境界

 秀吉が築城した長浜城は、現在の豊公園に本丸(長浜城歴史博物館周辺)・二ノ丸(テニスコート周辺)があり、湖周道路に沿った内堀の外側(東と北)に三ノ丸があった。三ノ丸は現在の長浜駅や殿町周辺に広がっており、「えきまちテラス長浜」東側の米川と、それを北上させた水路(「花玄」まで続く)が外堀であった。

 大手通りは現在「大手門通り」と呼ばれるが、秀吉築城当時からの城下町のメインストリートである。この大手通りは外堀を渡って城内に入るが、その外堀は壽山(ことぶきざん)の山蔵西の道路西端から、「鳥新」の敷地の途中まであり、元禄9年(1696)の町絵図によれば、幅15間(けん)(約27㍍)と記されている。この「鳥新」敷地内の堀が終わった場所、つまり「お旅所」の南に、大手門が存在したと考えられる。堀には当然、大手門につながる板橋が架けられていた。現在、「鳥新」の店前には「長浜城大手門跡」と記された石碑が建っている。

 長浜の大手門は、多くの城郭がそうだったように枡形(ますがた)をしていた。枡形とは城下町に対して高麗門(こうらいもん)を配し、その門を潜(くぐ)った場所を、石垣や櫓(やぐら)・塀(へい)で囲い四角い空間を作る。この空間は石垣等で行き止まり。城内へは左へ90度折れ、楼門(ろうもん。二階がある門)を潜って入る必要があった。枡形は攻城軍を枡内に滞留させ、四方から攻撃する防御空間であると共に、籠城軍が城外へ撃って出る際の出撃拠点ともなった。

 この枡形が廃城を迎え、門や櫓・塀が取り壊されると、90度曲がった道だけが残る。さらに時が経つと、三角形の二辺より、一辺を行く距離が短いので、2点を結んだ斜めの道に改変されていく。これが、長浜城大手門跡の現状で、「鳥新」と北の駐車場の敷地境界が示す斜めの線が、枡形の三角形の一辺を示す痕跡(こんせき)である。現存する枡形は、彦根城の「いろは松」から彦根城博物館に至る経路に設けられた佐和口御門(さわぐちごもん)を挙げるのが良いだろう。

 長浜の大手町から、大手枡形で二つの門を通過して城内に入ると、道は再び90度右に折れ、天守を正面に見据える形となる。そのまま、いくつかの屈折を経て、大手門からの道は本丸に到達する。

 単なる斜めの敷地境界だが、長浜城の大手門跡地であったことを意識すると、見えない歴史が見えてくる。地名以外にも、わずかな土地の痕跡から、秀吉時代に迫れるのが、長浜城下町の魅力でもある。なぜこの道の先は幅が広がるのか?どうして道はここで曲がるのか?古絵図を手に取り、都市計画について秀吉と対話しながら「まち歩き」をする醍醐味を、多くの人に味わってもらいたい。

長浜城大手門跡の斜めの敷地境界

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2023年7月25日掲載)

2026年5月29日

【湖北史記 其の31 】妙法寺の秀勝廟と秀吉の子

 長浜市大宮町に妙法寺という寺がある。秀吉の命(めい)により、小谷城下から長浜町の南東に移転された日蓮宗寺院である。天正4年(1576)10月14日、秀吉の男児が夭折(ようせつ)し、その子を葬った寺として、寺の東奥の本堂裏手に「秀勝公御廟(ひでかつこうおんびょう)」が祀(まつ)られていた。男児は「秀勝」と言ったというのが寺伝である。平成14年に、この廟所(びょうしょ)は本堂前に移転されている。

 秀吉には長浜城主時代に実子が生まれ、その誕生を祝って町内に砂金が配られ、それを元手(もとで)に、曳山が造られ祭が始められたと言われる。その実子に当たるのが、この妙法寺に葬られた「秀勝」であるとも言われて来た。実は、秀吉はこの「秀勝」という名前に、非常に執着しており、信長の五男で一時、秀吉が長浜城を預けた於次(おつぎ)秀勝、さらには姉ともの子で関白秀次の弟にも、小吉(こきち)秀勝の名を与えている。小吉秀勝は浅井三姉妹の三女江(ごう)の二番目の夫でもある。

 平成15年、長浜市は墓石を移転した跡地を発掘しており、骨壺(こつつぼ)や副葬品は確認できなかったものの、出土した石囲(がこ)いの埋葬施設を織田・豊臣期の大名一族の墓と結論づけている。廟所の中の墓石正面には「朝覚霊位(ちょうかくれいい)」と刻まれ、両側面には「天正四年」・「十月十四日」と命日が記される。また、妙法寺には昭和27年の本堂焼失まで、「本光院朝覚居士(こじ)」と記された童子像が現存していた。この童子像の白黒写真が残っており、今も墓前の説明陶板に印刷されている。この「朝覚」の俗名が「秀勝」であるという寺伝である。

 長浜周辺の寺には、この「朝覚」に関する古文書などが伝来する。知善院には「朝覚」の供養として、秀吉が寺領30石を寄進したと言われ、その寄進状写が伝存する。また、浅井三代の菩提寺として知られる徳勝寺(平方町)にも、堀部村(長浜市堀部町)にあった医王寺(徳勝寺の前身の一寺)に、同じく30石を寄進したと伝え、その寄進状の原本が伝来し、秀吉と「朝覚」が併記された位牌(いはい)も現存する。

 さらに話を混迷させるが、竹生島に秀吉の家族や家臣が金品を寄進した奉加帳が現存するが、その家族の位置に「石松丸(いしまつまる)」という子ども(「御(お)ちの人」とある)が記され、その二行後に書かれた「南殿」が、秀吉の側室で「石松丸」の母であるという説もある。この「石松丸」が、「朝覚」や「秀勝」と同一人物かは、まったく分からない。

 妙法寺に埋葬された秀吉子息の話は、実子か養子か、はたまた秀吉の親類か真相は今も闇の中である。あるいは、廟所に葬られた人物は、秀吉の姉・ともが熱心な日蓮宗信者なので、その周辺の人物と考えることもできる。

妙法寺の秀勝(朝覚)廟(現状)

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2023年7月11日掲載)

2026年5月29日

自衛隊員の「彦根城クリーン作戦」

石垣降下し草刈り、彦根総合高生も手伝い

 陸上自衛隊の隊員たちが彦根城内で石垣の除草作業をする「彦根城クリーン作戦」が28日に行われ、迷彩服姿の隊員たちが忍者のようにすばやく石垣の草を刈り取っていた。彦根総合高校の生徒たちも作業の様子を見守りながら、草集めなどを手伝った。

 彦根城クリーン作戦には、自衛隊滋賀地方協力本部、陸上自衛隊今津駐屯地、滋賀県防衛協会彦根支部、彦根市、彦根総合高から計約200人が参加。彦根城の魅力発信と自衛隊員たちの訓練を兼ねて実施した。

 昨年に続き3回目の今年は天守前で開会セレモニーがあり、ひこにゃんと、自衛隊滋賀地方協力本部のマスコットキャラクターの「陸ぽん」「海ぽん」「空ぽん」が登場。田島一成市長は「危険な場所での作業になるので安全に作業にあたってほしい」と述べ、自衛隊滋賀地方協力本部長の吉川正浩・一等陸佐は「危険な任務を果たす自衛隊員たちの組織力と統制力の美しさを見てほしい」とあいさつした。

 その後、自衛隊員たちは西の丸北側の石垣に移動。ロープを体に装着した上で、石垣の上から「懸垂降下」と呼ばれる方法で順番に下りながら、ノコギリや剪定ばさみで石垣に生えた草を刈り取っていた。迷彩服のため、草と一体化する中で、手際よく降下しながら作業にあたる姿に、見学者たちからは「忍者のよう」との声があがっていた。

 彦根総合高からはスポーツエキスパート系列の野球部、サッカー部、ハンドボール部、バドミントン部の2、3年生の生徒120人が参加し、4班に分かれて自衛隊員たちが刈り取った草を集めていた。サッカー部の2年・上本琉生君(16)=大阪市=は「自衛隊の皆さんの姿を憧れの思いで見ていた。彦根城に登ったのは初めてだが、国宝を美しくすることに貢献できてよかった」と語った。

(滋賀彦根新聞)

 

 

2026年5月29日

自治会変えるDXと女性 長浜市、専門家5人派遣へ

担い手不足や高齢化に対応

 長浜市は、自治会運営の「デジタル化(DX)」と「女性参画」を推進するため、専門知識を持つアドバイザーを自治会などへ派遣する支援事業を始める。高齢化や役員のなり手不足、業務負担の増大など地域課題が深刻化する中、デジタル技術の活用や女性の参画拡大によって、持続可能な自治会運営体制の構築を目指す。

 「自治会デジタル化支援アドバイザー」は2026年度の新規事業。対象は市内自治会で、1自治会2回まで利用可能。資料のデータ化や連絡のオンライン化などデジタルツール活用などについて助言する。

 市は2023〜2025年度の3カ年で、自治会向けにパソコンやWi—Fi、スマートフォン、プロジェクター整備などを支援してきた。すでに市内では、こうした支援を活用した自治会DXも広がり始めている。

 御堂前町自治会では、研修会やアドバイザー制度を活用してLINE公式アカウントとホームページを開設。市からの回覧物はホームページ掲載へ切り替え、更新情報をLINEで住民へ配信する仕組みを整えた。同自治会長は「紙で回覧するより情報を早く届けられ、作業も非常に楽」と効果を話している。

 今西自治会でもLINE公式アカウントを導入。これまで放送などで行っていた連絡をデジタル化し、募金や川掃除の日程などを配信している。同自治会長は「思った以上に簡単で便利」と話す。

 アドバイザーには、自治会長経験もある笹原文雄さんのほか、合同会社LOCO副代表の桐畑裕子さん、同スタッフの佐分利秀子さんが就任した。

 一方、「地域における女性の参画推進アドバイザー」は2025年度からの継続事業。女性が参画しやすい環境づくりや先進事例の紹介などを行う。

 市によると、2026年時点で市内427自治会のうち女性自治会長は2人のみ。自治会役員全体に占める女性の割合も2025年度時点で8・8%にとどまっており、多様な人材の参画が課題となっている。

 アドバイザーには、長浜市パートナーシップ推進協議会会長で防災士の廣部恭子さんと、川道神社の「オコナイ」への女性参画を進めた前田光治さんが就く。地域住民と一緒に課題を探り、女性が参画しやすい環境づくりを進める。

 市は「デジタル技術の活用による業務効率化と、女性参画の推進によって運営に多様な視点を取り入れることで、誰もが参加しやすく、次世代へつながる持続可能な自治会運営体制の構築を支援したい」としている。

 問い合わせは市市民活躍課(☎65・8711)。

2026年5月28日

布ぞうりの感触に笑顔

長浜幼稚園で、地域のお年寄りが寄贈

 長浜モラロジー事務所のシニアクラブ「福寿草」が27日、長浜幼稚園を訪れ、園児たちに布ぞうり作りを教えたり、手作りの布ぞうりを贈ったりして交流を深めた。園児たちは、布ぞうりのやさしい履き心地に笑顔を見せていた。

 「福寿草」による布ぞうりの贈呈は、地域交流の一環として毎年行われており、今年で3年目。この日は、園児が簡易の編み機を使った布ぞうり作りに挑戦し、お年寄りらに教わりながら布を編み込んだ。園児たちは「楽しい」「むつかしくなかった」などと笑顔を見せていた。

 また、「福寿草」のメンバーは、園児35人分の布ぞうりを事前に手作りして持参。足のサイズに合わせて複数の大きさを用意し、園児たちは好きな色柄の一足を選んだ。

 代表の藤居雅子さん(86)=朝日町=は「子どもたちが喜ぶように明るい色合いの布を選んだ。笑顔を思い浮かべながら作った」と話した。

 藤居さんは、物資の乏しかった小学生時代に祖母が作ったわら草履を履いて育ったといい、「祖母が作っている姿を見て覚えた」と当時を懐かしんだ。

 園児たちは、さっそく布ぞうりを履いて園内を歩き回り、布の柔らかな感触を楽しんでいた。初めてのぞうりに苦戦する子もいたが、友達同士で手伝いながら履く姿も見られた。

 藤居さんは、園児たちの歓声に「明るく元気な声が聞こえてうれしい。こちらが元気をいただきますね」と目を細めていた。

 

2026年5月27日

幸せ運ぶ「ドクターイエロー」寝袋に

米原のNANGA、クラウドファンディングで製品化

 「見ると幸せになれる」と親しまれた新幹線「ドクターイエロー」が、今度は眠りを支えます—。米原市本市場のアウトドアメーカー「NANGA」(ナンガ)はJR東海との初の公式コラボレーション商品「ドクターイエロー SLEEPING BAG」を発表した。昨年1月に引退したドクターイエロー(T4編成)をモチーフにした本格ダウン寝袋で、クラウドファンディング(CF)形式で製品化を目指す。全国的な人気を誇る新幹線と、湖北発のアウトドアメーカーによる異色タッグに注目が集まっている。

 ドクターイエローは、東海道・山陽新幹線の線路や架線設備を点検する「新幹線のお医者さん」と呼ばれた検測車両。鮮やかな黄色の車体で知られ、「見ると幸せになれる」と全国の鉄道ファンらに親しまれてきた。

 寝袋は、その車体カラーを再現するため、両社が何度も試作を重ねて開発したという。ナンガは「ただの黄色い寝袋では意味がない」とし、アウトドア環境でも色あせにくい色味や質感にこだわったとしている。

 寝袋は4シーズン対応。表地には防水透湿素材を採用し、スペイン産ダックダウン600㌘を封入。快適使用温度はマイナス4度、下限温度はマイナス11度を想定する。本体には「Dr.YELLOW」の刺繍を施し、暗所で光るYKK製特殊ファスナーも採用した。

 ナンガは1941年創業の「横田縫製」を前身とし、30年以上にわたり寝袋などダウン製品を製造している。

 クラウドファンディングは6月30日まで。目標額は350万円で、達成した場合のみ製品化されるオール・オア・ナッシング方式を採用。価格は通常プランが7万7000円。限定の早期支援プランや工場見学付きプランも用意する。

 詳細はhttps://qr.paps.jp/4lQL3から。

 

 

 

2026年5月26日

盲目のロックピアニスト、心震わす演奏

高月中で香介さんコンサート

 高月町出身の盲目のロックピアニスト・香介さんが22日、高月中学校を訪れ、ピアノ演奏や生徒とのセッションを披露した。音楽を通して平和や共生への思いを語り、生徒たちは力強い演奏に聴き入った。

 コンサートは、同校の親の会による研修会として開かれた。香介さんは、ピアノロックを軸に活動するシンガーソングライターで、国際音楽コンクール「ゴールドコンサート」でグランプリを受賞した経歴を持つ。

 演奏では、パラスポーツを応援するため車いす競技をテーマに制作した曲「アナザースター」などを披露。盲導犬育成支援や、ウクライナ紛争の被害者支援を目的とした活動にも取り組んでいることを紹介した。

 また、ウクライナ紛争やイラン攻撃など世界情勢にも触れながら、ジョン・レノンの「イマジン」を紹介。「50年前の曲だが、今の時代への戒めや、考えるヒントが詰まっている」と語り、「反戦歌」としてのメッセージを伝えた。

 生徒との交流では、「なぜピアノを選んだのか」との質問に、「ドラムをしたかったが、レイ・チャールズを聴いて、こんなふうに演奏したいと思った」と回答。「歌も上手いのはなぜ」と聞かれると、「元々はピアノから始めた。本来は歌いたいわけではなかった。今でも歌には自信がなく、ピアノでバランスを取っている」と笑顔で語った。

 「目が見えなくて苦労したことは」との問いには、「最近特に困っているのは、タッチパネル化」と説明。カーステレオやセルフレジ、暗証番号入力などが従来のボタン式から変わり、「前はできたことができなくなった」と不便さを訴えた。

 好きな音楽については、「ジャズやロックなど、いろんなジャンルのピアノを聴く。70年代ロックが好き」と話し、エルトン・ジョンやベン・フォールズ・ファイブなどの名前を挙げた。

 コンサートでは、生徒の南部大和さんがエレキギター、山下咲良さんがドラムで参加するなどして、香介さんとセッションを披露。最後は香介さんの伴奏で全校生徒が校歌を合唱した。

 

 

2026年5月25日

フランス団体客、長浜を満喫

福利厚生旅行で来日、新たな誘客の可能性

 長浜市に23日、フランス・パリからの団体旅行客36人が訪れ、長浜城歴史博物館や黒壁スクエア周辺を巡った。円安などを背景に訪日需要が高まる中、フランスの福利厚生制度を活用した団体旅行として来訪したもので、関係者は「継続的な誘客につながる可能性がある」と期待を寄せている。

 団体は京都から岐阜、長野などを経て東京へ向かう10日間の日程の途中で長浜に立ち寄った。

 長浜城歴史博物館では、観光事業関係者らが甲冑姿で出迎え、一行は長浜城を背景に甲冑武者と記念撮影。天守からは琵琶湖や街並みの眺望を楽しみ、その後は黒壁スクエア周辺を散策。曳山博物館も見学し、長浜曳山まつりの子ども歌舞伎など地域の歴史文化に触れた。

 今回の来訪を後押ししたのが、長浜市出身で日本観光振興協会副理事長を務める長谷川豊さん。長谷川さんは、日本政府観光局(JNTO)のパリ事務所長や在フランス日本国大使館一等書記官などを務め、フランスからの訪日誘客に携わってきた。

 長谷川さんによると、フランスでは企業や退職者団体の福利厚生旅行に補助制度があり、「団体旅行を組みやすい仕組みがある」という。

 欧州では、東京—京都・大阪を結ぶ「ゴールデンルート」が一般的で、「長浜を旅程に組み込むこと自体、かなりハードルが高い」とも話す。だが、近年は地方周遊への関心も広がっている。今回は京都から岐阜方面へ向かうルートの途中に、長谷川さんの後押しで長浜への立ち寄りが実現した。

 長谷川さんは「一度コース化できれば、継続的に来てもらえる可能性が高い」と説明。「フランスでは日本文化や歴史への関心が高く、食への期待も大きい」と話した。

 また、「長浜はこれから。街を挙げてインバウンドへの意識を持ってもらえると違ってくる」とし、英語表記の充実や行政支援の必要性にも言及。「子ども歌舞伎など、長浜ならではの文化資源は大きな魅力になる」と期待を寄せた。

 長谷川さんは過去に、ミシュラン観光ガイド日本版で長浜曳山まつりの子ども歌舞伎を紹介した経験もあるといい、「知られていない地域でも、ルート次第で誘客の可能性はある」と話していた。

 また、県はフランスからのインバウンドにターゲットを絞ったプロモーションに取り組み、フランス人インフルエンサーによる滋賀県の紹介をきっかけに、県内を訪れるフランス人観光客は増加傾向にある。湖北地域の旅館経営者からは、「宿泊する外国人客の約1割をフランス人が占めるようになった」との声も出ている。

 一行の長浜での滞在は約2時間。短い時間ながら、ガイドとの会話を楽しんだり、熱心に写真を撮ったりする姿が目立った。関係者は「まずは長浜を知ってもらうことが第一歩」としており、長浜が新たな訪日ルートの一端を担えるか、今後の展開が注目される。

 

 

 

2026年5月25日

空き家対策、官民連携を強化

長浜市、支援法人第1号指定

 長浜市は19日、空き家対策を官民連携で進めるため、「空家等管理活用支援法人」の第1号として、一般社団法人全国空き家アドバイザー協議会を指定し、市役所で指定式を行った。増え続ける空き家問題に対し、民間の専門知識を生かしながら、管理や利活用の強化を図る。

 空家等管理活用支援法人は、2023年施行の改正空家法で創設された制度。空き家の管理や活用に取り組む民間法人を自治体が指定し、相談対応や流通促進、地域との連携などを進める。

 市は2026年4月に改定した「長浜市空家等対策計画」に基づき、「長浜市空家等管理活用支援法人の指定等に関する事務取扱要綱」を整備。同協議会から申請があり、指定した。

 同協議会は2018年設立。全国各地で自治体と連携しながら空き家問題の解決に取り組み、2025年時点で72支部を展開している。市内では2023年、市と長浜支部が「空家等解消に向けた包括連携に関する協定」を締結。相談窓口の設置や空き家相談会などを通じ、官民連携による対策を進めてきた。

 市の2024年度調査によると、市内の空き家は2445棟で、空き家率は5・1%。地域別では余呉地域が15・9%と最も高く、長浜地域は3・1%で最も低かった。余呉、木之本、西浅井、浅井地域など、市北部・東部で高い傾向がみられる。

 空き家の状態を示す不良度判定では、老朽化が進み危険度の高いD判定が54棟(2・2%)、現状で利用が難しいC判定が182棟(7・4%)あった。一方で、比較的小規模な修繕で活用可能なB判定が1554棟(63・6%)、現状でも利用できるA判定が655棟(26・8%)あり、活用可能な物件も多い。

 また、市は今年4月改定の同計画で、「中心市街地周辺区域」と「木之本地区(北国街道・木之本宿)」を「空家等活用促進区域」に指定。空き家所有者への働きかけや、許認可手続きの合理化などを通じ、利活用を後押しする。

 指定式で浅見宣義市長は「空き家の増加は放置できない喫緊の課題で、総合的な対策を強化しなければならない。指定を機に連携をより強固にし、空き家の管理、利活用、流通促進など官民一体となって活動を推進する」と述べた。

 全国空き家アドバイザー協議会長浜支部の小林一男会長は「今回の指定第1号を喜んでいる。貴重な物件も、放置すればゴミ、視点を変えれば宝物になる」と話した。

 また、事務局長の大森敏昭さんは「空き家の売買は頭打ちとなっている。賃貸を増やすために所有者と借主の間に入る管理会社を立ち上げたい」と語り、空き家の新たな活用に意欲を見せた。

 支援法人に指定されることで、地域住民や関係機関から信頼を得やすくなるほか、行政との連携強化や事業拡大にもつながるという。

2026年5月22日

湖北の四季、油彩で鮮やかに

長浜文芸会館で「虹」「パレット」合同作品展

 油絵サークル「虹」と「パレット」による合同作品展が22日、長浜文芸会館で始まった。湖北の自然風景を中心に描いた力作約90点が並び、来場者の目を楽しませている。24日まで。

 両サークルは、南呉服町の画家・佃常觀さん(87)の指導を受けながら活動している。虹は毎週水曜、パレットは毎週木曜に長浜サンパレスで制作に励んでおり、合同作品展は1年間の成果発表の場として毎年開催している。

 会場には、余呉湖や伊吹山、湿原や渓流など湖北の四季折々の風景を描いた作品が並ぶ。日展や光風会展の入選作品も展示され、見応えある内容となっている。

 作品名は「メタセコイア並木」「余呉湖の春」「初夏の湿原」「観音坂からの伊吹」「渓流光彩」「初冠雪」「工場夜景」など。このほか、ドイツの名城を描いた「ノイシュバンシュタイン城」も出展されている。

 パレット代表の七里藤吾さん(83)=高月町西阿閉=は「四季を通じた風景画が主に並んでいる。水や空、緑の美しさを感じ取ってもらえたら」と来場を呼びかけている。

 時間は午前10時から午後5時まで。最終日は午後4時終了。

 出品者は次の皆さん。

 【虹】江畑平夫、小林希代子、田邉國雄、冨岡幸三、仲谷文夫、西尾文男、野村厚子、堀部八重、前田優子、水上悦子、三田重子、山形満恵、芳井秀子。

 【パレット】伊藤津哉子、笠原一郎、金田雅夫、七里藤吾、七里藤穂、中山徳雄、古川敏夫。

 

 

 

2026年5月22日

【湖北史記 其の30 】秀吉の開町と長浜の旧町名 ②

 前回に続き、長浜町の旧町名の由来を探ってみよう。

 「鍛冶屋町」は、知善院町の南で善隆寺がある町。鍛冶屋が集住したので、この名前があるのだろう。元禄8年(1695)の記録には、鍛冶屋が一軒のみ残っている。関連して「金屋(かなや)町」と「金屋新町」。「金屋町」は、平成15年に開園した金屋公園(滋賀銀行御堂前支店跡)で身近な地名となった。曳山の金屋席も町名が由来。「金屋新町」は、鍵の手に曲がった金屋町から、駅前通りの方へ延びる町である。金物商人が多く移り住んだことから、これらの名前がある。元禄8年の記録でも、両町合わせて鍋屋が6軒、鍛冶屋が5軒と、町の特色をよく保持している。

 「中鞴(なかたたら)町」は、長浜城の二重の外堀の間で、南北に細長い町。えきまちテラス長浜の南の浄国寺付近を中心に南北に延びる。町名の由来は、武器と貨幣を鋳造する職人が多く集住したからと言う。鞴ははフイゴ(送風機)を意味し、鉄の加工には必需品である。旧長浜城内の軍需工場の場所が、廃城後に長浜町に編入されたと考えられる。

 現在「祝(いわい)町」の名で知られている東西通りは、江戸時代は「魚屋(うおや)町」と呼ばれた。北国街道から西が「西魚屋町」、同じく東に「中魚屋町」、鍛冶屋町と大谷市場町を挟んで、「東魚屋町」が続く。もちろん、魚屋が集住した場所である。長浜では魚を扱う店を納屋(なや)と呼んだが、元禄8年の記録では中魚屋町に2軒、東魚屋町に8軒の納屋が確認されている。当時までは、魚屋町としての体裁をよく保っていたようである。

 覚応寺がある南部の町・紺屋(こんや)町は、もちろん染物屋が集住した町である。元禄8年の記録では8軒もの紺屋が残っており、開町当時の面影を保っていた。道の南を流れる水路では、紺屋が染物を洗ったと言われている。

 長浜幼稚園がある「上船(かみふな)町」。その南に「大安寺町」を挟んで南に延びる「下船(しもふな)町」。これらは、いずれも北国街道沿いだが、その西に並行して南北に延びる「小舟(こぶな)町」や「船片原町」もある。以上四町は、船舶関係の仕事に従事した人びとが多かったことによる命名である。「上船町」や「下船町」の西に並行して流れる米川には、船荷を入れる蔵が建ち並んでいた。本町に向かって上・下が付けられているのは、呉服町で述べた原則通りである。元禄8年の記録では、下船町で船持8軒、船大工1軒。小船町では全戸数35軒の内、27軒が船持、船片原町では全13戸が船関係者と町名と職種がよく合致している。

 このように、長浜町の旧町名は、この地の歴史を語る重要な歴史資料なのである。

下船町石柱

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2023年6月26日掲載)

2026年5月22日

【湖北史記 其の29 】秀吉の開町と長浜の旧町名 ①

 羽柴秀吉は、浅井氏を滅亡させた天正元年(1573)頃から長浜城下町の建築を開始する。秀吉の時代、長浜の町は49町で構成されていた。その後、「大手片原(かたはら)町」が北・中・南に分かれ、長浜城内であった「中鞴(なかたたら)町」が、新たに町域に加えられることで、江戸時代初期には52の町割となった。この町割は、明治12年(1879)に至るまで変化なく、かつての長浜の町民にとって、非常に馴染み深い地名となった。

 よく江戸時代の町名と混同されるのが、明治12年に成立した町名である。52町の中で、2~4町を合併したものだ。この時成立した新・大手町のように、旧52町の「大手町」と「大谷(おおたに)市場町」を合併して、単に区域が大きくなった町もある。しかし、多くの場合、新しい地名が成立した。「相生(あいおい)町」・「祝(いわい)町」・「錦(にしき)町」・「永保(えいほ)町」・「栄船(えいせん)町」などである。これらは、目出度い地名=瑞祥(ずいしょう)地名が多く、地名の命名方法としては優等生とは言い難い。

 現在、52町の区域は、南呉服町・元浜町・大宮町・朝日町などの町名になっている。これらは、昭和39年(1964)から同40年にかけて実施された新住居表示によるもので、先しか見ない高度成長期が生んだもの。郵便配達等の事務的な都合により、一方的に造語され命名された。歴史を重視する現在では、機械的な命名ですこぶる評判が悪い。地名は長い年月をかけて市民権を得てきたもので、それらを簡単に否定・改変すべきではない。さらに、地名にはその地の歴史が刻まれている。昔からの地名を消し去ることは、人間で言えば姓名を損なうことに等しい。地名はその土地の個性を表わすものなのである。

 旧52町に秀吉以来の歴史があるとすれば、その町名の由来を考えてみる必要がある。それが、長浜城下町を知る第一歩となるはずである。52町は命名方法からいくつかに分類できる。ここでは、2回に分けて秀吉城下町時代の居住者の職種が、町名に反映されている町を紹介しよう。まず、「呉服町」は大手町・魚屋町の通りで分断され三町に分かれる。太鼓楼で有名な浄琳(じょうりん)寺があるのが「上呉服町」。願養寺があるのが「下呉服町」。その間に「中呉服町」がある。つまり、南から北へ向かって、上・中・下と名づけられている。これは、本町通り(駅前通り)を中心に、長浜の町名がつけられたことを示す。呉服町は、秀吉時代は呉服商人が多く集住したことから、この名前があるのだが、元禄8年(1695)の記録では、絹屋四軒が確認できるのみである。商店の入れ替わりが激しかったことを示す。 (次回へ続く)

下呉服町石柱

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2023年6月13日掲載)

2026年5月22日

【湖北史記 其の28 】秀吉からの贈物・朱印地は町人の誇り

 今から450年前の天正元年(1573)から、羽柴秀吉は長浜城下町を建造するが、そこで町人を集めるために、年貢諸役(しょやく)を免除したという話は有名である。信長の「楽市楽座令」はよく知られるが、長浜での年貢諸役免除も、その一環とみてよい。この年貢諸役の免除政策は、天正7・8年(1579・80)頃、あまりにも農村部から町への人口流入が激しいため、城主秀吉によって中止されそうになる。しかし、秀吉の母なかの反対によって、政策が維持されたという逸話もある。

 天正19年(1591)5月9日、前年に小田原北条氏を滅亡させ天下統一を果たした豊臣秀吉は、長浜の町に「町屋敷(まちやしき)年貢米三百石」を免除すると記した朱印状(しゅいんじょう)を交付した。近江国では秀吉政権による太閤検地が徐々に進められていたが、それが一段落したこの年、一斉に年貢免除を認める朱印状が、寺社を中心に出されている。ここで、長浜八幡宮・知善院などの寺社への朱印地(しゅいんち。寺社領)と同じく、長浜町の年貢免除地も、朱印状で保証された「朱印地」として、制度的に認められたことになる。

 この朱印地は江戸時代に至っても存続し、幕末まで維持された。慶安4年(1651)には、朱印地(長浜領)と年貢地の境界を明確にするため、町内に「従是(これより)南長浜領」などと記された境界石柱が建造された。その数は、28本あったとされる。この石柱、現在も本来の位置に立つのは4本に過ぎない。移動されて現存するものは12本ほどある。

 江戸時代の長浜では、開町の恩人である秀吉を祀(まつ)ることは、主に知善院で行なわれていた。この寺には、元禄15年(1705)、「地子(じし)報恩講」によって観音堂が建立された。この堂は、表向きは現在重要文化財となっている十一面観音坐像を安置する観音堂を建立したものであるが、実態はその「建立記」にも記されているように、秀吉からの年貢免除を感謝する目的があった。

 実際、この堂には神になった秀吉を示す「豊国大明神(ほうこくだいみょうじん)」の掛軸が飾られた。観音堂はカモフラージュであり、実態は年貢免除(これを「地子」と表わす)を感謝する豊国大明神堂の建立であった。この建立事業には、町年寄吉川三左衛門をはじめ、長浜町内の有力者137人が奉加に加わっていることが「建立記」から読み取れる。

 江戸時代の長浜町人にとって、この朱印地は町の発展の礎(いしずえ)と認識され、秀吉信仰の核ともなっていく。この秀吉からの贈物(おくりもの)は、年貢免除が町へ与えた経済的効果より、秀吉による長浜開町と発展の象徴として、町人に誇りを与えた精神的効果の方がはるかに大きい。

 

翁山の山蔵前の朱印地境界石柱(原位置を保持する1基)

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2023年5月24日掲載)

 

2026年5月21日

彦根牛文化、現代に再び

旧処分場跡地で肥育牧場公募

 彦根愛知犬上広域行政組合は20日、彦根市中山町の旧一般廃棄物最終処分場「中山投棄場」の跡地について、「肉用牛の肥育牧場」として活用する事業者を公募型プロポーザル方式で募集すると発表した。江戸時代に全国へ広がった「彦根牛」の歴史文化を持つ地域で、肉用牛生産による地域振興を目指す新たな動きとして注目を集めそうだ。

 対象となるのは、中山町の旧最終処分場跡地。敷地面積は約4万7000平方㍍、埋立面積は約2万6000平方㍍。管理棟など既存施設も残る。組合は「地域畜産業の振興」「安定的な肉用牛生産体制の構築」「遊休資産の有効活用」「地域経済活性化および雇用創出」を目的に掲げ、民間事業者による牧場運営を想定している。

 中山投棄場は1998年9月に供用開始。彦根市、豊郷町、甲良町、多賀町の1市3町から排出される不燃ごみを受け入れてきた。2016年3月に埋立処理を終了し、その後は中継基地として活用。2021年3月に閉鎖した。2024年11月には県から最終処分場の廃止基準適合確認を受け、2025年3月に維持管理を終了した。

 跡地利用を巡っては、組合が2026年3月に「中山投棄場跡地利用計画書」を策定。先進事例調査や民間事業者への意向調査、サウンディング型市場調査、地元協議を経て、「表層のみを利用すること」「公民連携で行うこと」などを条件に、牧場事業を有力候補として整理した。

 今回の公募では、牧場の中でも「肉用牛の肥育牧場」を明示。参加資格として、「3年以上の牧場経営実績」「常時50頭以上の飼養実績」などを求めている。

 また、最終処分場跡地という特殊性から、厳格な環境対策も条件化した。糞尿処理や臭気・騒音対策、公共水域への排水防止、防疫体制、災害時の緊急対応計画などを求め、搬入出車両についても「登下校時間帯を避ける」「早朝・深夜搬入を原則行わない」などの対策を示している。

 組合は、地域雇用創出のほか、循環型畜産や耕作放棄地活用の可能性についても提案を求めている。

 組合は6月19日まで参加表明を受け付け、7月中旬にプレゼンテーション審査を実施。8月上旬に事業候補者を選定する予定。

 彦根と牛肉文化の関わりは古い。県によると、1687年の元禄年間には、彦根藩で牛肉の味噌漬け「反本丸(へんぽんがん)」が考案されたとされる。江戸時代、牛肉は薬用として扱われており、反本丸は、明の薬学書「本草綱目」を参考に作られたと伝わる。

 「本草綱目」に「黄牛の肉は佳良にして甘味無毒、中を安んじ気を益し、脾胃を養い腰脚を補益す」と記されていることから、反本丸は補養薬として作られたものと考えられる。

 また、彦根藩では牛肉を乾燥させた「寒(かん)の干牛肉」も作られていた。塩分を抑えるため、1年で最も寒い1月上旬から節分までの期間に製造し、薬用として食されていたという。

 1771年の安永年間には彦根牛肉を諸侯に振る舞った記録があり、1781年の天明年間には、牛肉の味噌漬けを将軍・徳川家斉に献上したとされる。さらに1788年には乾燥牛肉を家斉に献上した記録も残る。

 幕末期には、彦根産牛肉は県外にも広がった。県によると、1863年ごろに来日した写真家フェリックス・ペアトが撮影した厚木宿の写真には、「牛肉漬」「薬種」と書かれた看板が写っており、東海道から離れた厚木でも江州彦根産の牛肉が薬用として販売されていたことが確認できるという。

 水戸藩主・徳川斉昭が彦根藩主井伊直亮から贈られた牛肉について、「薬用にも用いており忝ない」と礼状を送った記録も残されている。

 ごみ処分場として地域インフラを担ってきた土地が、今度は地域畜産の新たな拠点となるのか。彦根の歴史文化とも重なる挑戦として、その行方が注目される。

2026年5月21日

24億円投じ宿泊型総合リゾートへ

グランスノー奥伊吹にゲレンデ直結ホテル、来年12月開業

 米原市甲津原のスキー場「グランスノー奥伊吹」を運営する奥伊吹観光は20日、ゲレンデ内にホテルを新設すると発表した。総工費は24億2000万円。日帰り利用が中心だった従来型のスキー場から、「宿泊型総合リゾート」への転換を掲げ、インバウンド需要の取り込みや地域経済活性化を目指す。2027年12月の開業を予定している。

 建設場所は、スキー場のゲレンデベース(入口付近)。ホテルは鉄骨造6階建て、延べ床面積4725平方㍍で、客室54室、定員159人。宿泊者専用駐車場も整備する。施工はオオサワ、設計は湖北設計、昇降機設備はフジテックが担当する。

 最大の特徴は、宿泊客がホテルから直接ゲレンデへ出入りできる「スキーイン・スキーアウト」方式。板を履いたまま滑り出し、そのままホテルへ戻れる設計で、ファミリー層や長期滞在客の利便性向上を図る。

 館内には、自動チェックイン・精算システムを導入。さらに宿泊者専用のリフト自動改札機も設置し、待ち時間軽減や混雑緩和につなげる。最新IT技術を活用した「世界最先端のスキー場ホテル」を掲げている。

 同社によると、湖北地域は自然や観光資源に恵まれる一方、宿泊施設不足が課題となっていた。観光客の多くが日帰りにとどまり、地域内消費の拡大や滞在時間延長につながりにくい状況が続いていたという。また、近年はグランスノー奥伊吹の人気上昇で来場者が特定日に集中し、混雑が課題となっていた。

 ホテル整備により、複数日にわたる滞在型利用を促進し、平日と休日の来場者の平準化を図る。関西・中京圏からのアクセスの良さを生かし、京都、大阪、神戸、名古屋などの都市観光と雪遊びを組み合わせた「都市観光+雪体験」の新たな観光需要創出も狙う。

 インバウンド需要も重視し、外国人観光客向けに「かまくらテラス」など新たな雪体験コンテンツも導入予定。ホテル営業はスキーシーズンを中心とした冬季約150日間を予定している。

 グランスノー奥伊吹は、関西最大級のスキー場として知られ、全14コースと9基のリフトを備える。近年は人工造雪機導入や高速リフト整備、大規模レンタル施設新設など積極投資を進め、2025—26シーズンは11月14日から翌年4月12日まで150日間営業した。