市内の商家で発見 小谷城石垣増強を裏付け
「明日、石を引け」—。戦国大名・浅井久政が家臣に命じた一通の書状が、長らく行方不明となっていたが再発見された。小谷城は、浅井氏三代の居城で「日本五大山城」に数えられる堅城。その石垣づくりの現場を具体的に伝える初の史料とみられる。
長浜城歴史博物館と曳山博物館が21日、発表した。
書状は、久政が家臣に宛てたもので、年未詳5月7日付。翌8日に小谷城で石垣用の石を運ぶ「石引き」が行われることを伝え、自身の配下にも動員を命じたうえで、宛先の人物にも同日夕刻までに参集し、翌朝の作業に参加するよう指示している。さらに、当主の長政自らが指揮を執ることも記されている。
この書状は、昭和2年(1927)刊行の「東浅井郡志」に掲載されていた「金光寺文書」の一つとみられるが、その所在は不明となっていた。昨年秋、市街地の商家で行われた博物館による共同調査で確認された。入手経緯は不明だが、古物商を通じて収集された可能性が高いという。
また、同家に伝わる資料の全体像については現在も調査が進められているが、NHK大河ドラマで浅井氏や小谷城攻防戦が描かれる時期に合わせ、今回の書状の再発見のみを先行して公表した。
書状には久政から家督を相続した後に長政が名乗った「備前守」の記述があることから、永禄4年(1561)以降、元亀4年(1573)までの間に作成されたと推定される。
従「東浅井郡志」では冒頭を「衆引き」と誤読していたが、原本の再確認により「石引き」と判明。これにより、小谷城の石垣普請に直接関わる文書であることが明らかになった。
小谷城に関する文献は、落城に関する書状などは残る一方、築城や修築に関する史料はほとんど確認されていない。わずかに、初代亮政期の大永年間(1521〜28)に小谷山頂の「大嶽」築城に関する文書が、国宝「菅浦文書」に残るのみで、修築過程を示す記録は知られていなかった。
このため、今回の書状は小谷城の修築に関する唯一の文書と位置付けられる。
長浜市が2020年3月にまとめた総合調査によると、城内では73カ所で石垣が確認され、番所から六坊にかけての主要部(本丸、広間、京極丸などを含む東尾根)は総石垣であったと考えられている。一方で、石垣の規模は幅1㍍未満のものから2㍍以上のものまで多様で、同時期に一斉に築かれたのではなく、段階的に増強されたとみられる。今回の書状は、そうした石垣整備の過程を文献から裏付けるものとなる。
また時期によっては、長政が織田信長から離反した元亀元年(1570)前後の防備強化と関連する可能性もある。信長は同年6月、小谷城を包囲するも堅固さを前に退却しており、今回の書状はその背景を示す史料の可能性が指摘される。
中井均・県立大名誉教授(城郭史)は「戦国時代の石垣に関する文書はほとんど残されていない。この文書は小谷城での石垣構築を具体的に記しており、極めて重要な史料」と指摘し、太田浩司・淡海歴史文化研究所所長(近江中世史)も「小谷城が徐々に増強されていく過程を実証できる点で、浅井氏研究上も大きな成果」と評価している。
書状は小谷城戦国歴史資料館で開催中のテーマ展「浅井長政と小谷城」で初公開される。展示期間は4月24日から5月11日まで。




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