【湖北史記 其の80 】「春近」地名の由来

 前回は新栄(にいさか)町の地名が、明治時代に付けられた吉祥(きっしょう。瑞祥(ずいしょう))地名である話をしたが、今回は古代・中世の荘園制時代の吉祥地名である春近町の話である。長浜市の「春近」の名前は、鎌倉時代の末から確認できる。その初見史料は、大原観音寺文書に残った延慶(えんぎょう)2年(1309)3月10日の僧定祐(じょうゆう)田地寄進状である。同寺に寄進された上坂郷(こうざかごう)内の田地1反半(たんはん)は、「春近伏田(ふせだ)廿五丁神田領」とされる。

 その後も、大原観音寺文書に「春近」が登場するが、「はりちか」と仮名(かな)書きされている文書があり、中世にはそのように発音していたらしい。また、石清水八幡宮文書にも「春近」の地が記され、応永16年(1409)11月24日に、幕府から同社へ寄進されている。さらに、15世紀の中頃には、京都の公家や寺院の日記にも登場し、近くの土豪・堀部氏と京都の相国寺が、「堀部上坂之内春近名(みょう)」の領有権をめぐって対立していたことが記述される。

 実は、この「春近」の地名は、他県にも存在する。全国の大小の歴史地名を網羅した『日本歴史地名大系』(平凡社)によれば、「春近」の地名は14ヶ所あると記す。長野県に4ヶ所、岐阜県に5ヶ所、福井県に4ヶ所、そして滋賀県に1ヶ所である。なぜか、岐阜県を中心に4県に及び、何等かの関係が想定されよう。

 この各県に広がる「春近」の関係や歴史について考究した稲垣泰彦氏の研究がある。もともと、古代律令制の中で朝廷の「御服料(ごふくりょう)」(天皇家の衣服の材料代)に当てられる土地があったが、その制度が崩壊すると、国々の国衙(こくが。今の県庁に当たる)領や同所に務める有力者の領地から支出されるようになる。これを「便補」と呼ぶが、「春近」もその「便補」の一つではないかと稲垣氏は推論する。

 さらに稲垣氏は「春近」は仮名(けみょう)であるという。朝廷での相撲(すもう)の儀式の費用を当てる土地を「相撲(すまい)」と呼ぶように(長浜市相撲町の例)、費用充当先をそのまま名前として呼ぶのではなく、目出度い名前を「仮に名(な)づけ」呼ぶ方法である。「御服」とは呼ばずに「春近」と目出度く呼んだことになる。「春近」からの年貢は、天皇家の「御服」の費用に当てられる上に、目出度い名で呼ばれる。極上の吉祥地名ということになる。

 春近村がある上坂郷は中世においても、坂田荘(さかたのしょう)のような末尾が「荘」ではなく「郷」が用いられている。「郷」が末尾につく場合は、当初は国衙領であったことを示す。この点、稲垣氏の結論と合致している。「春近」は、地名から豊富な土地の歴史が見えて来る典型である。

 

春近会館(長浜市春近町)

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2025年5月27日掲載)

掲載日: 2026年10月02日