【湖北史記 其の78】新栄町常昌寺と小足掃部夫妻画像

 長浜市内の寺院は、浄土真宗が圧倒的だが、日蓮宗の寺が3ヶ寺ある。その内の一ヶ寺が、新栄(にいさか)町の常昌寺(じょうしょうじ)である。山号を「小足山」という。日連上人の孫弟子にあたる日像(にちぞう)上人が、正中(しょうちゅう)元年(1324)に、現在地の北西300㍍の所に建立したのが創立と伝える。

 浅井氏初代の亮政の時代に当たる天文元年(1532)、寺が荒廃しているのを見かねた当地の地侍・小足掃部頭(かもんのかみ)常昌が願主となって再興された。しかし、直後の天文(てんぶん)5年(1536)、兵火に罹るが、またも常昌が再建したとされる。この小足氏の初見は大原観音寺(米原市朝日)に残る延慶(えんぎょう)2年(1309)の寄進状で「小足民部大夫(みんぶだゆう)範忠」と見える。室町時代には神照寺や長浜八幡宮の祭礼や法要に関する文書に「小足殿」の記述がある。

 京都醍醐寺に残る長禄2年(1458)の京極氏奉行人連署奉書(ぶぎょうにんれんしょほうしょ)は、坂田郡柏原荘の段銭(たんせん。守護が課す税)の免除を伝えたものだが、宛名の一人が小足掃部助(かもんのすけ)となっている。小足氏が守護京極氏の命に従い、北近江の現場で徴税の実務に当たっていたことが知られる。さらに、「江北記(ごうほくき)」にも、京極氏家臣として「小足掃部助」の名が確認できる。

 小足氏は、他の湖北の地侍と同じく、戦国時代に至ると浅井氏家臣となったようで、浅井氏の菩提寺である徳勝寺の授戒帳(じゅかいちょう)には、天文4年(1535)に「小足掃部」妻の記録がある。この「掃部」は、時代的に常昌寺を再建した小足常昌と見られるが、同家が室町時代から「掃部」を通称としていたことが確認できる。

 浅井久政・長政時代の小足氏の動向はつかめないが、関ヶ原合戦後に若狭国小浜藩主となった京極高次の家臣リストに、再び「小足掃部」の名が登場する。さらに、高次の子・忠高は出雲国松江の城主となるが、その家臣リストにも「小足掃部」が記される。

 実は、福井県小浜市の日蓮宗寺院・妙興寺に小足掃部直氏(なおうじ)とその夫人画像が残っており、小浜市指定文化財となっている。直氏像に書かれた墨書によれば、その生前である元和(げんな)8年(1622)までに描かれた寿像(じゅぞう)で「江州坂田郡人」とある。また、同じく墨書から、夫人は元和4年(1618)に没し、その追善像であることが分かる。夫人は室町時代からの京極氏家臣であった浅見氏の出自でもあった。

 湖北の京極氏家臣で日蓮宗寺院を再興した小足氏は、江戸時代には小浜や松江で、再び京極氏家臣としての姿を現わす。掃部直氏夫妻像には、「南無妙法蓮華経」と題目が記されており、日蓮宗への信仰を他国に行っても忘れなかった。常昌寺への支援も続けたに違いない。

 

常昌寺(長浜市新栄町)

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2025年4月30日掲載)

掲載日: 2026年09月18日