長浜市七条町の足柄神社の境内に「天下一能面師 近江イセキ◇発祥の地」と刻まれた石碑が建っている。横にある由緒書にもあるように、中世から近世初頭の面打(めんう)ちとし知られた井関家四代の発祥地であることを記念したものである。戦国大名浅井氏の菩提寺である徳勝寺の授戒帳(じゅかいちょう)には、七条村に近い堀部村にあった医王寺の授戒会(じゅかいえ)の記録が残るが、井関を苗字とする者が沢山登場する。面打ちとなった家系もその一つであろう。
面打ちの井関家は、上総介(かずさのすけ)親信を初代として、二代目の次郎左衛門、三代目の備中掾(びっちゅうのじょう)と続き、四代目の河内大掾(だいじょう)家重の時代に江戸へ出て名を上げた。天文五年(1536)の「伊吹社及び三宮修造勧進状・奉加帳」には、「井関次郎左衛門尉(じょう)」の名が見え、弘治(こうじ)二年(1556)の医王寺授戒帳には「井関備中殿之子息」の名が記され、能面師・井関の実在は地元の史料でも確認できる。
井関家の面で、現在知られる範囲で最も古い作品は、高知県にある土佐国の総社・土佐神社に伝来する能面「小尉(しょうじょう)」(高知市指定文化財)である。同社には同国の戦国大名・長宗我部(ちょうそかべ)元親らの寄進と伝えられる51面の能・狂言面が伝来するが、井関家の面もその一つである。表面は彩色されていたが、現在は全面に剥落(はくらく)している。そのおかげで、彩色下に墨書銘があったことが知られる。赤外線写真の助けによれば、「江州坂田北郡 井関□□□源親信作 于時享禄元年八月十六日」と記されている。享禄(きょうろく)元年(1528)は、浅井亮政が覇権を確立した頃で、井関家初代が戦国中期の湖北で活動していた状況が追える。
土佐神社の作例のように、表面に作者銘を残すものは、兵庫県の篠山能楽資料館の般若(はんにゃ)面(親信作)にもあり、初期の井関の面には多く見受けられると言う。通常は能面の裏面に作者銘を刻むが、彩色を施すことで隠れてしまう表面に自分の名を、住所を添えて記すのは特別な意味を感じる。職人として名を残すというより、神仏への祈願が含まれているのではないかとする説もある。
井関家の能面は、滋賀県の多賀大社、岐阜県の関市や揖斐川町の春日神社にも伝来するが、長浜市七条町の足柄神社も2面が伝わり、長浜市指定文化財となっている。同社の春の例大祭(長浜市指定無形民俗文化財)に「尉(じょう)と姥(うば)」の面として使用されてきたもので、茗荷悪尉(みょうがあくじょう)と大天神(だいてんじん)の面である。いずれも、裏面の額の部分に「イセキ」、裏面の両目の間に「◇」が刻まれており二代目の井関次郎左衛門作であることが知られる。能面師井関家は、中世の湖北が輩出した名工として、国友鉄砲鍛冶や、下坂槍鍛冶と共に注目したい。
「近江イセキ◇発祥の地」の石碑(長浜市七条町)
淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司
(滋賀夕刊 2025年4月1日掲載)




