前回の取材の為、長浜市加田町の神田溜周辺を散策し、その北の亀岡山(神田山)に登った。豊島池を造ったと言われる豊島作右衛門忠次(とよしまさくえもんただつぐ)の顕彰碑の存在を20数年ぶりに確認しようと思ったからである。顕彰碑は今も存在したが、平成20年(2008)に地元の有志によって建て替えられたものであった。明治35年(1902)に建立された石碑を再建したものである。
正面には「豊島作右衛門碑」とあり、自然石を加工した姿は、明治の石碑と変わらない。裏面には金属プレートで再建の経緯と、以前は石に刻まれていた忠次の事績が記されている。その文章には以下のようにある。
忠次の本邸は信州にあった。1万石を領して加田村に陣屋を設けていた。慶長7年(1602)に神田溜を造成して、村内の水利環境を向上させたことで、村人はその恩を感じたと記す。
この事蹟で、本邸が信州にあったとするのは、作右衛門の父・秀有が、信州も領した武田信玄や勝頼に仕えたと、『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』に記述されていることによるのかもしれない。また、前回記したように、忠次は幕府直轄領代官で大名ではないので、1万石の所領は得ていないと見るべきである。『寛政重修諸家譜』では200石を得ていたとする。ただ、代官として預かっていた幕府領は1万石を越えていた可能性がある。
加田村に陣屋があったことは実証できない。ただ、加田町共有文書に、慶長8年(1603)11月12日付で、忠次が加田村庄屋・百姓中宛てに出した年貢受取状が残っており、加田村が当時は幕府領で、彼が代官を務めていたことは確認できる。この点から、溜池の造成は事実と見ていいだろう。
その他にも、湖北には忠次に関連する文書が10点ほど残り、代官を務めた湖北との関りを知ることが可能である。国友鉄砲鍛冶の文書には、大坂冬の陣の年に当たる慶長19年(1614)に幕府役人が出した鉄砲受取状が残っているが、その宛名は忠次であった。国友鉄砲の納入を管理する立場にあったことが知られる。
また、5月11日付の大原観音寺(米原市朝日)宛の書状では、幕府からの課税は免除する旨、手代に伝えたと書き送っている。現在の米原市域も管轄だったことになる。最後の長浜城主であった内藤信正の10月21日付けの書状にも、長浜の船年寄であった吉川三左衛門の息子が用意した船が、忠次の管理であったことを知って驚いたと述べている。忠次は琵琶湖の船も管理していたようだ。
湖北の江戸時代は、彦根藩のみでは語れないことを、忠次の存在は教えてくれる。
作右衛門碑 長浜市加田町 亀岡(神田)山々頂.jpg)
豊島(嶋)作右衛門碑、亀岡(神田)山々頂(長浜市加田町)
淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司
(滋賀夕刊 2024年12月24日掲載)




