神田パーキングエリアの北西、亀岡山を背にして神田溜(かんだだめ)がある。豊島池(としまいけ)とも言われるこの溜池は、約2・8㌶の広さを持ち、田地用水に苦労が絶えなかった加田町の田地を灌漑(かんがい)して来た。旧長浜市役所の2階には、昭和33年(1958)の干拓工事によって掘り出されたという神田溜の樋門が展示されいた。その由緒を記した説明文によれは、慶長7年(1602)当時の代官であった豊島作右衛門(さくえもん)が溜池を造成したと伝える。
この豊島作右衛門は、実名を忠次といい、永禄7年(1564)の生まれであった。豊島氏は平安末期から史書に表れる、武蔵国豊島郡(東京都豊島・練馬区附近)を本拠する武士であったが、文明9年(1477)に、太田道灌(どうがん)よって居城を攻められ勢力を失った。しかし、その後も命脈を保ち、4代目後の作右衛門は徳川家康に仕え、200石を与えられた。彼が北近江に幕府直轄領(ちょっかつりょう)代官として赴任したのは、関ヶ原合戦の直後であったと見られる。湖北には、作右衛門が関係する文書が10通程残るが、大坂の陣が始まる慶長19年(1614)まで、当地にいたことが分かる。
残された古文書で見る限り、作右衛門は年貢の収納、琵琶湖の船舶の管理、河川の改修、国友鉄砲の納品など、多くの幕府行政に関与していた。関ヶ原合戦後、近江には彦根藩井伊家が入部していたものの、多くの幕府直轄領が存在していた。そこに、徳川家から何人かの代官が派遣され、一方で地元の有力者の中にも代官として起用される人物がいた。前者が作右衛門、後者の代表は浅井郡八木浜村(長浜市八木浜町)の中村市右衛門(いちえもん)であろう。
亀岡山の山頂には、明治35年(1902)に建立された「豊島作右衛門碑」(再興)が建ち、加田村に陣屋があったと記す。当村が作右衛門の管轄地であったことは、古文書から分かるが、彼の陣屋があったという事実は確認が取れない。また、溜池を造ったことも、証明する文書はない。しかし、地元に作右衛門の名が残り、池の端には豊島神社があり、神として崇められている以上、神田溜が作右衛門の代官時代に造成されたことは事実なのであろう。
作右衛門は勝手に溜池を造ったことを咎められ、追放されたと伝える。しかし、これは彼が幕命により八丈島の代官となったことから連想された誤伝である。八丈島は江戸時代の流刑地として知られた。その八丈島(はちじょうじま)から中村市右衛門に届いた手紙には、再会の折には碁を共にうちたいと記している。寛永20年(1643)、80歳で没している。
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神田溜(豊島池)、南から写す(右端が北陸自動車道)
淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司
(滋賀夕刊 2024年12月10日掲載)




