【湖北史記 其の66 】下坂浜町の「さいかち」の木と一向一揆

 長浜市下坂浜町の集落の南端に、「保存樹『さいかち』にまつわるお話」という同町自治会が設置した説明看板があり、「さいかち」の木も一本残る。看板によれば、かつてこの辺りから田村町の湖岸にかけては「さいかち」の木が多数生えており、「さいかち浜」と呼ばれたという。さらに、浅井氏に味方した一向一揆と、織田信長方の木下秀吉との戦闘が、この地で展開したことを記す。浅井長政と織田信長の壮絶な4年間の戦いのなかで、姉川合戦以外では最大の戦い「箕浦・さいかち浜合戦」のことである。

 この合戦については、木下秀吉自身が、家臣と目される徳山右衛門(うえもん)へ、坂田郡南部であった元亀2年(1571)5月6日の合戦経過を伝えた文書が残っている(長浜市長浜城歴史博物館蔵)。同書によれば、浅井軍が信長方であった鎌刃(かまのは)城(米原市番場)がある箕浦荘(みのうらのしょう)まで出撃してきたため、横山城(長浜市石田町など)から出撃した秀吉軍が、鎌刃城兵に合流して、箕浦(米原市箕浦)付近で応戦し勝利する。

 秀吉軍は、箕浦付近から敗退した敵を、八幡(長浜八幡宮・長浜市街地付近)まで追撃、多くを討ち取った上、取って返した敵も三度まで押し返した。その上、残った敵は海(湖)へ追い入れて勝利したと記している。秀吉自身が、「箕浦・さいかち浜合戦」の一部始終を語った史料として非常に貴重である。この時、「さいかち浜」では、秀吉軍により浅井氏・一向一揆軍の多くが湖水に追い詰められ、溺死(できし)したと伝承されている。

 一方、織田信長の年代記『信長公記(しんちょうこうき)』にも、この合戦についての記述がある。そこには、箕浦で秀吉軍に撃退された浅井軍には、一向一揆軍が含まれ、下長沢(米原市長沢)でも合戦があったこと、秀吉方の樋口直房(なおふさ)の家臣・多羅尾(たらお)相模守らも討ち死したとある。浅井軍は切り崩され、下坂の「さいかち浜」に逃れた後に、さらに八幡や下坂に向かって逃れていったと記す。

 秀吉の書状では、先に八幡まで追撃し、その後「海へ追入」とあるので、八幡での戦いより「さいかち浜合戦」が後にあったことになる。『信長公記』では「さいかち浜合戦」が先で、敗れた兵が八幡へ逃げて行ったとある。地理的に言えば、『信長公記』の方が自然だが、秀吉自身の言葉も重視したい。

 米原市長沢の福田寺境内にある「殉教万人塚(じゅんきょうまんにんづか)」は、時の住職・覚芸に率いられて信長・秀吉軍と戦い、犠牲となった門徒衆を弔うために建立されたものという。下坂浜町の「さいかち」の木も、浅井氏と秀吉の戦跡として、また湖北真宗門徒の信仰の証(あかし)として大切にしたい。

 

下坂浜町の「さいかち」の木

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2024年11月12日掲載)

掲載日: 2026年08月21日