【湖北史記 其の65 】長浜市室町の「兵庫居立」と広瀬兵庫

 長浜市室町に「兵庫居立(いだち)」という場所がある。室町の日枝神社の西、同町自治会管理の広場になっている所である。ここには、かつて長浜城主羽柴秀吉に仕えた広瀬兵庫の屋敷があったと伝承する。中世の城主を列記した「江州佐々木南北諸士帳」にも、兵庫が室村に住(すま)いするとある。この広瀬兵庫は、現在の岐阜県揖斐郡揖斐川町坂内広瀬の出身で、長浜城の築城時も、秀吉の命で西美濃から建築資材としての竹の提供を行なっていたことが知られる。秀吉が長浜城主となった前後から、その家臣であった武将である。

 兵庫は、秀吉や主だった家臣が備中高松城攻めで中国地方に出陣している時、長浜城の留守居の一人であった。天正10年(1582)6月2日に本能寺の変が起こり、明智軍が長浜城に乱入することを予期して、秀吉の家族たち(妻の「ねね」や母の「なか」)を、自らの本貫(ほんかん)の坂内広瀬まで誘導し、安全を確保した。その経路は、東草野の甲津原(米原市甲津原)から、江濃国境の新穂峠(しんぽとうげ)を越えての逃避行だったとされる。

 この話を裏付ける文書も残っている。長浜城主だった羽柴秀吉と、信長の五男で秀吉の養子となった羽柴秀勝の連署で、同年6月19日付の広瀬兵庫に宛てた宛行状(あてがいじょう)である。秀吉家族を西美濃に逃した恩賞として、兵庫に対し高山(長浜市高山町)・甲津原・杉野(長浜市木之本町杉野)の地において、500石の地を与えるとある。この文書は、昭和2年(1927)発刊の『東浅井郡志』に「甲津原区有文書」として掲載されていたが、長く行方が分からなくなっていた。平成27年(2015)になって、湖北を離れ遠方に所在することが発見され、長浜城歴史博物館で展示された経緯がある。

 広瀬兵庫を先導役に抜擢したのは、浅井郡尊勝寺村(長浜市尊勝寺町)の称名寺の僧・性慶(せいきょう)であったという。実は、この性慶に対しても、7月1日付けで秀吉家臣の卜真斎(ぼくしんさい)信貞から、「筑前守足弱衆(あしよわしゅう)」の逃避行に尽力したことに対する礼状が残っている。「足弱衆」とは女性たちの意味だが、この礼状で称名寺の寺領や家臣の保護を明言し、新たな屋敷2ヶ所を与えている。この性慶は、翌年の美濃(賤ヶ岳)大返しの際も、疾走する秀吉に従ったと伝えられている。

 6月13日の山崎合戦で光秀は敗北し、長浜城にいた明智軍は撤退、秀吉は17日に長浜に帰城し、「ねね」や「なか」も19日には無事に美濃から帰城している。先の兵庫への宛行状は、この日の発給(はっきゅう)である。秀吉家族の危機を救った広瀬兵庫の名は、「兵庫居立」と共に記憶に留めたい。

 

「兵庫居立」(長浜市室町)

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2024年10月29日掲載)

掲載日: 2026年08月21日