長浜市内には、大辰巳町と大戌亥町の地名コンビがある。一方、長浜市山階町は、江戸時代に辰己村と戌亥村と言った。坂田郡内に同じ村名があっては紛らわしいということで、前者については彦根藩が「大」を頭につけさせたので、現在の町名に落ち着いている。「辰巳」は「南東」を意味し、「戌亥」は「北西」を意味する江戸時代の方位呼称である。
山階町の場合、町の中心に立った時、旧辰巳村は「南東」に、旧戌亥村は「北西」に位置するので、村名の由来は明白である。一方の大辰巳村と大戌亥村の場合はどうか確認するため、両町の中心である国道8号線の大戌亥町交差点付近に立つと、大辰巳町は「北東」に、大戌亥町は「南西」に当たり、これでは丑寅(うしとら)村と未申(ひつじさる)村になってしまう。
実は、大辰巳町は中世、もっと西の国道8号線付近にあり、高野部村または高鍋村と言ったとする伝承がある。地域の有力寺院である観音寺(米原市朝日)や総持寺(宮司町)の文書に、この村名が室町時代に現われる。たとえば、明応(めいおう)3年(1494)12月5日に、高野辺村の孫三郎は楞厳院荘(りょうごんいんのしょう)内の一段(いったん)の地を売却している(総持寺文書)。高野辺村・高鍋村の場所は、長浜新川に架かる現在の「たかなべ(高鍋)橋」付近であったと言われている。
「たかなべ橋」付近は縄文時代以来の集落跡である鴨田(かもた)遺跡の一部にあたり、昭和63年(1988)の長浜新川にともなう発掘調査において、鎌倉時代の12世紀後半に始まり、戦国時代まで存続した集落跡が検出されている。特筆すべきは、仏具・石仏・小型木札などの他、30点以上のぼる宝徳(ほうとく)4年(1452)の年号が入った巡礼札が出土した仏堂跡も見つかっていることだ。高野辺村には西国三十三所巡礼者も訪れる仏堂があったようだ。
中世に当地にあった高野部村または高鍋村は、現在の山階町の江戸時代と同じく「辰巳」と「戌亥」に分かれており、戦国時代末から江戸時代初めに同村は廃されて、中世の「辰巳」は「北東」へ移転し大辰巳村となったと見られる。一方、中世の「戌亥」が「南西」に移って大戌亥村になったと考えられないだろうか。つまり、「辰巳」・「戌亥」は移った方向ではなく、元の場所の位置勧関係と見るのである。
ただし、大戌亥村の呼称については、地域に大きな影響力を持った地侍・下坂氏の城館との位置関係で説明する考えも存在する。同町の成立については、湖北十ヶ寺の一つで、町内の福勝寺の歴史や寺地も合わせて考える必要があり、謎が完全に明かされていない。

たかなべ橋(長浜市大辰巳町所在)
淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司
(滋賀夕刊 2024年10月17日掲載)




