長浜市内には北国街道・脇往還、それに小谷道(おだにみち)などの多くの江戸時代の街道が通っている。それは、日本の首都であった上方と、北国を結ぶ中継地としての湖北の重要性を物語るものである。北国街道の存在を具体的に示すものとして、長浜市指定文化財となっている道標が大戌亥町の西端にある。長浜市下坂浜町から東へ、大戌亥町へ入った所、扶桑工業社員駐車場の南に、北側に行く道がなく、①真っ直ぐ行く道と、②南と③東南に行く道が分岐する交差点がある。その①直進道と③東南道の三角地中央に、一本の道標が建つ。平成30年に車が衝突し倒れたので、長浜市が周辺整備を行ない、説明看板も改めて翌年復旧した。
この道標が建設されたのは、北面に「安政五戊午(つちのえうま)八月建之」と彫られているように、幕末の安政5年(1858)8月である。当時、大戌亥町の南の高橋村に、見附屋長治郎という財産家があり、街道往来者のために私費をもって建てたものという。さらに、西面に「右京いせ道」、南面に「左北こく道」と彫られている。下坂浜方面から来た旅人に、右折すると米原から京伊勢に至ること、逆に寺田・高橋方面から来た旅人には、左折すると長浜を経て北国(福井・金沢)に至ることを示す案内である。本来、現在の場所から20㍍ほど西の田地にあったと伝わり、道標の指示方向は、その場所にあれば位置的に矛盾がない。
湖北に多く存在した道標だが、車社会の発展により、姿を消すものも多いなか、江戸時代と変わらず北国街道沿いに所在する本標は貴重である。また、建立年も明確で文字の彫りが深いなど歴史資料や美術工芸品としての価値も高い。
北国街道は、鳥居本宿の北にあたる下矢倉村(しもやぐらむら。彦根市下矢倉町)で中山道と分かれ、米原宿・長浜町や速水村を経由し、木之本宿で北国脇往還と合流、中河内宿から栃ノ木峠を越えて福井・金沢に至る道であった。
ただ、この街道経路を子細に見ると、江戸時代の段階でどこを通っていたかを調べるのは意外と難しい。街道全体を示した地図は、明治26年(1893)測図のものが最古で、後は江戸や明治に書かれた村ごとの絵図が残っていれば、それを個別に確認していく手法しかないのだ。他に伝承を頼りにしたりもするが、沿道に建つ道標の位置から街道経路を割り出す場合もある。この道標もその一つで、江戸時代の旅を再現できる数少ない文化財と言えよう。
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令和元年修復直後の北国街道道標(長浜市大戌亥町)
淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司
(滋賀夕刊 2024年10月1日掲載)




