【湖北史記 其の58 】雪で命を奪われた富山の薬売りの話

 江戸時代、富山の薬売りの商人であった石動(いするぎ)屋幸助(こうすけ)と熊野屋亀二郎の話である。彼らは年の4分の1の冬期は富山で製薬を行ない、残りの4分の3の期間は各地に出向いて売薬を行なったという。2人は3月から近江南部で行商し、11月18日には仕事を終え故郷に帰ろうとしていた。19日は夜に日を継いで、近江国内を北上し、晩に伊香郡柳ヶ瀬(長浜市余呉町)に宿した後、20日には柳ヶ瀬を出て栃ノ木峠に向かった。

 椿坂に至る途中、大雪に遭遇する。二人は雪に囲まれ動くことが出来ず、そこで凍死してしまった。柳ヶ瀬で二人を泊めた宿の主人であった黒田屋五兵衛・加賀屋吉兵衛は、二人の死を悼(いた)み、現場を捜索して死体を回収し、柳ヶ瀬の墓地に埋葬して碑文を建立した。この碑文は、今も柳ヶ瀬共同墓地に建っている。上記の事件の顛末(てんまつ)は、この碑文に書かれているが、その文章執筆を依頼された伊香郡黒田村(長浜市木之本町)の明徳寺の前住は、碑文を以下のように続ける。

 私がこの碑文作成を受けた理由は二つある。一つは凍死した二人を哀れるものである。もう一つは、雪道を行く者の無防備を正すためである。石碑を建立する2人の宿主の思いは、「仁の術」から来ている。まことに尊ぶべきものだ。そもそも、この2人の「仁の術」は、薬売りの凍死があってからのことである。凍死した二人を責めれば、碑を建立した二人の善行を後世に語り継ぐことができない。亡くなった2人は、雪山の険難を越え、自らの死をもって後人への戒めとしたものだ。これは「仁」というべき行動だったと確信する。とある。

 この碑文には「辛丑(かのとうし)」の年というだけで、年号が書かれていない。60年に一回まわってくる「辛丑」は享保6年(1721)、天明元年(1781)、天保12年(1841)あたりが該当しよう。碑文の正面には、「釈勇進」・「釈教真」と凍死した二人の法名が記される。これが、「勇ましく進む」・「真実を教える」という意味ならば、2人の行動を碑文の通りまったく責めていない。

 側面には施主の黒田屋と加賀屋の名がある。黒田屋は碑文を執筆した住職と同じ黒田村の出身で、柳ヶ瀬において旅館を経営していたのだろう。加賀屋は加賀国の出身者と常識的にはみなされる。二人の薬売りの内の石動屋の「石動」は、富山県の西の玄関に当たる町。現在は小矢部(おやべ)市内で北陸線のJR石動駅もあった(現在、北陸線は民営化)。家族が待つ越中へ、なぜそんなに急いだのであろう。柳ヶ瀬から栃ノ木峠に至る北国街道は、幹線道路だっただけに人々の悲哀が多く記憶される。

柳ヶ瀬共同墓地にある富山の薬売り受難の碑

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2024年7月23日掲載)

掲載日: 2026年07月31日