【湖北史記 其の57 】栃ノ木峠をめぐる歴史

 史記54・56では、近江と越前を結ぶ道として、深坂越えと刀根越えを紹介した。今回は、もう一つの古道である栃(とち)ノ木峠越えを取り上げよう。現在の国道365号線のルートである。北陸自動車の柳ヶ瀬トンネルの場所から、国道を北進して椿坂・中河内(なかのかわち)と辿(たど)る道で、栃ノ木峠で県境(国境)に至り、越前側に下って板取(いたどり)の集落を抜け、今庄宿(福井県南越前町)に到着する。

 この街道、一般的には天正(てんしょう)6年(1578)に、越前国北庄(きたのしょう)城主だった柴田勝家が、信長の居城である安土城への最短距離の道として開削したとう伝承がある。事実、「越後草」という本には、中河内・椿坂の間は森が深く多くの木が生い茂り、険(けわ)しく越えがたい所であったと記している。

 ただ、柴田勝家の開削を遡(さかのぼ)ること15年前の永禄(えいろく)6年(1563)に、京都醍醐寺の僧侶が北国廻りをした際、この栃ノ木峠を通っている。9月25日に木之本に宿泊、26日は椿坂で昼食をとり、今庄で宿泊したとある。この行程では栃ノ木峠越えをしたとみるのが常識的だろう。したがって、柴田勝家が開削する以前から、細い道があったようである。

 峠には現在、余呉高原スキー場があり、「淀川の源」の碑が建つ。また、街道沿いに地蔵堂があり、南越前町側には町指定の天然記念物の栃ノ木が茂るが、かつては九軒の中河内村人が住み、明治初期までは数軒の茶屋もあった。滋賀県最北の集落である。茶屋にあった秀吉から下賜されたという茶釜は江戸時代には有名だった。

 江戸時代、この栃ノ木峠を通過した旅人の日記がいくつか残存するが、その内、文化13年(1816)に金沢藩八家(はっか)の一つ・前田土佐守(とさのかみ)家の家臣が、主人に従って京都に出た際の旅日記が興味深い。そこには、峠を少し近江側に下った中河内宿の様子を詳しく記している。一行は7月5日に越前国府中(ふちゅう。武生)を出て、その日は中河内に宿泊した。宿に着いたのは八(や)つ時と言うから、午後2時か3時である。宿は中村太右衛門で、天気が良く座敷からの景色は木々が生い茂り、山川の水の音が聞こえ、鶯(うぐいす)・郭公(かっこう)が鳴き競っていたという。

 夕方になると涼しくなり、単衣(ひとえ)の着物では寒かったが、取り敢えず本陣に宿している殿様(前田土佐守)に挨拶して、「この宿は(涼しいので)蚊がいませんな」と言葉を交わしたと言う。宿では主人が「この宿は蚊がいませんから蚊帳(かや)は不要です」と話すので、障子も閉めて寝ている。まるで秋のようだったとある。7月5日と言えば、今の暦(こよみ)では8月中旬で最も暑い時期である。今も中河内の夏は凉しいのだろうか。

 

栃ノ木峠(滋賀県より福井県を見る)

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2024年7月9日掲載)

掲載日: 2026年07月24日