【湖北史記 其の56 】刀根坂をめぐる歴史

 史話54では、近江と越前を結ぶ道として、紫式部も通った深坂(ふかさか)越えを紹介した。近江と越前を結ぶ古道は他にもある。今回は刀根(とね)越えを取り上げよう。現在の北陸自動車道の経路である。木之本から国道365号線(かつての北国街道)をたどり柳ヶ瀬まで至ると、国道を西に外れた集落の北端に、「左つるが 三国 ふねのりば」と彫られた明治16年(1883)建立の道標が建つ。北国街道から左に分かれて、刀根坂あるいは倉坂・久々(くく)坂を越えて、越前に至る街道である。

 柳ヶ瀬から北に(道標から右に)直進する現在の国道365号線は、栃(とち)ノ木峠越えで柴田勝家によって、天正6年(1578)に開削されたと伝える。それ以前は、この刀根越えが歴史的によく使用された。その中で最もよく知られているのが、小谷落城の17日前、天正元(1573)年8月13日の「刀根坂の合戦」だ。

 小谷城を包囲された浅井長政を合力(ごうりき)するため、朝倉義景は木之本の田上(たがみ)山まで進軍したが、その前線であった小谷城大嶽(おおづく)と丁野(よおの)山砦の陥落を聞いて、越前に退却しようとした。これを、秀吉をはじめとする織田軍が追撃、刀根坂で追いつき、朝倉軍三千人を討ち取ったと『信長公記』に記されている。美濃国斎藤氏の当主・龍興(たつおき)も朝倉方としてこの合戦で討ち死にした。義景の自刃に終わる朝倉氏の滅亡は、この7日後なので、朝倉軍の敗戦を決定づけた合戦と言える。敦賀では有名な出来事で、「敦賀まつり」に曳き出される山車(だし)の一つ・金ヶ辻子山(かねがずしやま)は、この合戦が題材となっており「みなとつるが山車会館」で常設展示されている。

 時代は下がって、江戸後期。初めて測量による日本地図を制作した伊能忠敬(いのうただたか)もこの峠を越えている。享和3年(1803)5月26日のことだった。忠敬の測量調査は第10次まで数えたが、この時は近江から北陸にいたる第4次調査で、前々日24日に木之本本陣竹内五左衛門宅、前日の25日に柳ヶ瀬の松居伊兵衛宅に宿泊。当日は六つ半(午前7時頃)に宿を発って「久々坂」を越えた。忠敬は伊香郡と敦賀郡の郡界だと記し、そこには敦賀を領する小浜藩の役人が迎えに来ていた。

 さらに明治時代に至ると、この峠の下を敦賀へ至る鉄道が通る柳ヶ瀬トンネルが掘られた。実は、明治15年(1882)の鉄道開業当時、このトンネルは未完成で、敦賀に向かう乗客は、一度柳ヶ瀬駅で降りて、歩いて刀根越えをして敦賀側の洞道西(どうどうにし)駅で再び汽車に乗った。当時の時刻表をみると、1時間30分で峠越えることになっている。そこに、トンネルが貫通したのは、明治17年(1884)のことだった。敦賀側には、わずが24分で到達した。

 

明治16年の「つるが」と記された道標(倉坂峠は刀根越えを指す)

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2024年6月25日掲載)

掲載日: 2026年07月24日