【湖北史記 其の55 】豊臣秀長の宿老だった小堀正次

 2026年のNHK大河ドラマ主人公に決まった、秀吉の弟・秀長(長浜時代は長秀と言った)と湖北の関わりの5回目である。「其の48」で紹介した小堀遠州の父・正次(まさつぐ)は、豊臣秀長の宿老(しゅくろう)の一人であった。宿老とは江戸時代の家老にあたる重臣中の重臣である。浅井氏家臣から秀吉家臣となり、秀吉から秀長に付けれたと推定される。したがって、秀長の但馬(たじま。兵庫県北部)攻めに参加していたと思われ、秀長が城代を務めた竹田城(朝来(あさご)市)や出石(いずし)城(豊岡市)にも在城していたと見られる。

 正次の動きが明らかとなるが、「本能寺の変」直後の天正10年(1582)、明智光秀が山崎合戦で敗死した後である。正次は秀長軍の指揮官として光秀領だった丹後国福知山に入って、家臣たちの扶持(ふち)を分けるなどの占領政策を行なっている。翌年4月の賤ヶ岳合戦後、秀吉は西の毛利氏対策のため、姫路城を秀長に預け、但馬国に加え播磨国も支配させる。その際、多忙で姫路に帰れない秀長に代わって、播磨国の統治を行なっていたのが正次であった。この姫路城代時代、播磨清水寺(加東市)など国内四ヶ寺に宛て、正次は寺領安堵(あんど)状を出している。

 天正13年(1585)9月、秀長が大和・和泉・紀伊の三ヶ国100万石の太守として大和郡山へ入ると、正次も同所に入り、大和や紀伊の太閤検地を指揮することになる。また、大和郡山の城下町政策に関与したことは、天正18年(1590)8月23日付で、小堀正次とその同僚の宿老だった横浜一晏(よこはまいちあん)との連署状から知られる。

 この連署状は江戸時代の大和郡山町の自治組織である「箱本」十三町で管理された。「箱本(はこもと)」には1ヶ月交代の当番町があり、この書状が入った朱印箱を、当番町の会所に置き保管した。朱印箱には、他に天正20年(1592)6月10日付の秀長養子・秀保(ひでやす)禁制(小堀正次・横浜一晏連署)などが入っていたという。秀長が天正19年(1591)、秀保も文禄4年(1595)に死去するが、この朱印箱は江戸時代を通して大和郡山の町人によって大切に保管され、現在は「郡山町箱本関係資料」として奈良県指定文化財となっている。

 正次は、関ヶ原合戦後の慶長5年(1600)年末には備中国(岡山県西部)松山城主となり、徳川家康から1万4千石余りを与えられた。備中国の国奉行(くにぶぎょう)として、鉄や紙の生産を管理したが、慶長9年(1604)に65歳で死去している。松山城主と備中国奉行の役職は、子の遠州正一(まさかず)に引き継がれた。

 

小堀正次も在城した大和郡山城の本丸(奈良県大和郡山市)

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2024年6月11日掲載)

掲載日: 2026年07月24日