紫式部は、長徳2年(996)、父・藤原為時(ためとき)が越前国の国司(こくし)に任じられたことから、父に従って任地に赴いた。同年の秋のことだった。大河ドラマ「光る君へ」の5月26日の放送で、この「旅立ち」が描かれた。その中で、琵琶湖を船で行く場面、塩津湊(みなと)の風景、深坂(ふかさか)越えする姿も描かれた。
本紙「新春特大号」でも、京を出て逢坂山(おうさかやま)を越え、大津の打出浜から湖上を、さらに江越(ごうえつ)国境を過ぎ越前国府に至る紫式部の足取りをたどった。船は高島郡の沖合を行き、塩津湊に上陸することになる。そこから深坂峠を越える塩津街道で越前国内へ入ったが、式部はここで歌を詠む。「しりぬらむ 往来(ゆきき)に慣らす 塩津山 世に経(ふ)る道は からきものぞと」。
彼女の歌集「紫式部集」に載るこの歌の背景には、塩津山(深坂)を越える塩津街道を、多くの人が往来していたことがある。身分の低い輿(こし)の担ぎ手が、「ここは難儀な道だ」と話すのを聞いて詠んだ歌とされる。担ぎ手たちは塩津街道の往来に慣れているだろうが、世渡りの道は「つらい」ということを知っているだろうか、と言った意味であろう。深坂越えの難所を、人生の困難に例(たと)えたものだが、意気揚々と越前に赴くドラマとは少々事情が違うようだ。
塩津街道は、琵琶湖北部の要港・塩津と敦賀間の峠道で、畿内と北陸を結ぶ最短ルートとして古代から重要視されてきた。現在の国道八号線に沿ったルートである。ただ、国道は新道野(しんどうの。敦賀市新道野)を経由するが、これは戦国時代の弘治年間(1555~58)頃に開発された道。それ以前は、奈良時代から深坂越えが使われてきた。「万葉集」の笠金村(かさのかなむら)の和歌に「塩津山 うち越えゆけば 我が乗れる 馬ぞ爪(つま)づく 家恋(こ)ふらしも」とある。深坂越えの難所と都を想う気持ちが記される。
深坂越えは現在も、滋賀県側から行くと、新道野集落直前に国道八号線より西へ入る深坂地蔵への参道としてたどることができる。平清盛が塩津と敦賀間の運河を造ろうとしたが、途中で大きな岩にぶつかり計画を断念した。その岩の下から現れた地蔵を祀(まつ)った堂が今も建ち「堀止(ほりどめ)地蔵」とも呼ばれる。地蔵堂周辺の風景は、今も古道を彷彿(ほうふつ)とさせる。地蔵からしばらく行くと峠に至り、坂を下って敦賀市追分(おいわけ)に至ることができる。その間には、式部や金村の和歌を記した説明板も建つ。街道は敦賀の町に入る前の道口(みちのくち。敦賀市道口)から、木ノ芽(きのめ)峠か山中峠を越え、越前国府があった武生に向かう。ドラマでは、敦賀の松原客館(きゃっかん)に先に訪れていた。式部が通った街道をたどりつつ、平安貴族の旅を追体験するのも楽しい。

深坂峠(越前側から近江側を見る)
淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司
(滋賀夕刊 2024年5月28日掲載)




