【湖北史記 其の53 】伊香郡古橋村と秀長(長秀)

 2026年のNHK大河ドラマ主人公に決まった、秀吉の弟・秀長(長浜時代は長秀と言った)と湖北の関わりの4回目である。

 前回、長浜市木之本町黒田には、初期の秀長文書が二通伝わることを述べたが、同町古橋の高橋家文書(現在は長浜市長浜城歴史博物館蔵)にも、秀長文書が一通伝来する。「羽(羽柴の略)小一郎長秀」と署名し「花押」を据え、淡路・左京ら古橋村の農民代官に宛てたものである。天正3年(1575)11月11日付けで出されている内容は、農民代官たちの管轄範囲が250石の土地であること、代官たちは「政所(まんどころ)」と呼ばれていたこと、さらに田地用水の維持管理費は、代官収入の一部で賄(まかな)うことが記されている。

 秀長の兄・秀吉が北近江の統治者となってから三年、この時期には長浜城も完成し、羽柴兄弟も同城へ入城した頃である。地域の村々の統治も、その村の実情に応じて体制を整えていたことが、この文書から伺える。前回紹介した黒田村の例もそうだが、伊香郡中央部に秀長文書が多く残るのは、その付近の統治を、秀長は秀吉から任されていたからかもしれない。

 実は、この高橋家文書には、秀吉文書も伝来している。天正元年(1573)8月11日のもので、「ふるはし郷」の百姓中に対して、黒田村同様に早速の「還住(かんじゅう)」を命じている。信長方と浅井氏との戦いで、伊香郡の村人たちは戦乱に巻き込まれないためにも、山奥などに逃れていた。ここで秀吉は、浅井氏との戦乱が伊香郡に及ばなくなったのを確認して、村に帰るように命じている。

 小谷城籠城中の浅井長政は、阿閉貞征(さだゆき)・貞大(さだひろ)が守る山本山城を、本城と共に重要拠点としていた。この山本山城が浅井方として健在な限り、南から小谷城を攻める信長方が、小谷城の搦手(からめて。北側)に回ることはなく、かつ伊香郡も浅井領として確保できていた。しかし、山本山城が同年8月8日に陥落する。本書は3日後の11日付けなので、山本山城の落城を受けて、伊香郡の諸村が信長や秀吉の占領下となったことを示す。逆に、それは信長方と浅井氏との戦闘が、伊香郡ではなくなったことを示すと理解できる。

 古橋村の高橋家文書には、天正6年(1578)2月23日付けの一柳(ひとつやなぎ)直次の書状が残る。この時、秀長・秀吉は中国攻めに出向いていた頃。一柳は秀吉の家臣で、文中から但馬国(兵庫県北部)に出向いた高田久三(きゅうぞう)に代わり、古橋村の代官であったと読める。古橋村の統治は、すでに秀吉家臣の手に渡っていた。秀長が伊香郡諸村に責任者として臨んだのは、秀吉の長浜領統治のごく初期のみだったと見るべきだろう。

木之本町古橋(もと伊香郡古橋村)の虫送り行事(平成26年8月17日)

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2024年5月14日掲載)

掲載日: 2026年07月17日