2026年のNHK大河ドラマ主人公に決まった、秀吉の弟・秀長(長浜時代は長秀と言った)と湖北の関わりの3回目である。
長浜市木之本町黒田には、初期の秀長文書が二通伝わる。一通は「木下小一郎長秀」と署名し「花押(かおう)」を据え、「黒田郷惣百姓中」に宛てたもの。「花押」は図案化したサインである。8月16日付けで出されている内容は、「元亀(げんき)争乱」により他所へ逃れていた村人たちに、村へ帰るように促したもの。「還住(かんじゅう)」したら安全な生活を保障するとも述べられている。この書状には年号がないが、「還住」が問題になっていることから、伊香郡での戦乱が終息した小谷落城の年、天正元年(1573)のものと見て間違いなかろう。
元亀元年(1570)から始まった浅井長政と織田信長の戦い「元亀争乱」は、湖北の地を焦土と化した。特に伊香郡は、元亀三年(1572)から数回にわたり、信長が焼き討ちしており、現在もこの地域の仏像は難を逃れるため、川に沈めたとか、土に埋めたという伝承がある。有名な向源寺(渡岸寺)十一面観音立像の観音堂・収蔵庫の前には、「御尊像埋伏之地」と記された石碑が建てられている。また、西黒田安念寺の「いも観音」は、元亀争乱において住民が仏たちを門前の田の中に埋めて隠したという。比叡山焼き討ちの時と伝えるが、元亀争乱中のことと理解していいだろう。秀長はこの文書が示すように、新たな湖北の統治者となる秀吉の重臣として、戦乱で荒廃した地域の復興を最前線で指示していた。
もう一通の秀長文書は、2月4日付けで、やはり「小一郎長秀」と署名し花押があり、「くろた村名主百姓中」と宛名がある。黒田村から仕事内容不明ながら土木工事の人夫を調達するので、戸数90軒の内、半分は免除するが、45軒から人を出して集落内の「小原」に明日集結するように命じている。もし集まらなければ「成敗(せいばい)」するという厳しい文言も付いている。この土木工事は街道の道普請、寺社の復興など様々なことが考えられる。あるいは、長浜城の普請工事であったかもしれない。だとすれば、天正2年か翌年のものと考えていいだろう。本書で示された集合場所「小原」の地名は、黒田本郷集落の西、国道365号線沿いに、今も小字(こあざ)として現存している。
北近江には400近くの村があったと思われるが、秀長の文書が伝わったのは、他に同郡古橋村のみである。その理由は不明だが、あるいは黒田村周辺の伊香郡の統治を、秀吉は秀長に託していたのかもしれない。30歳半ばの秀長の姿を伝える稀有(けう)な文書2通である。
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小字「小原」から見た黒田の集落(右後の山は田上山城跡)
淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司
(滋賀夕刊 2024年5月1日掲載)




