【湖北史記 其の51 】上坂氏と羽柴秀長(長秀)

 2026年のNHK大河ドラマ主人公に決まった、秀吉の弟・秀長(長浜時代は長秀と言った)と湖北の関わりの続きである。坂田郡西上坂村(西上坂町)の国衆(くにしゅう)・地侍(じざむらい)であった上坂氏は、浅井氏の家臣から秀吉に従い、さらに秀長に配属された。その上坂家に伝来した「上坂家文書」(西上坂町蔵)110点は、長浜市指定文化財となっている。その中には、秀長からの文書が実に10通と大量に含まれる。

 上坂氏は浅井氏が台頭する以前から、守護家である京極氏の家臣で、その執権的立場となり湖北を統治した名族である。姉川の用水管理に大きな権限を持ち、左岸を灌漑する郷里井(ごうりゆ)の代表者と見なされていた。右岸を代表する三田村氏と合戦に及ぶこともあった。上坂景信、その子・意信(おきのぶ)の時代には、浅井久政や長政からの文書が残り、その家臣であったことが知られる。

 浅井氏が滅亡した後、秀長に仕えてからは、秀吉の中国攻めに主君と共に参陣し、丹波国(京都府と兵庫県にまたがる)から但馬国(兵庫県の中北部)にかけて活動していたことが「上坂家文書」から読み取れる。但馬国の毛利氏勢力を掃討し、竹田城(兵庫県朝来(あさご)市)に入っていた秀長から、天正8年(1580)10月18日、300石の領地を与えられた。この点からすると、毛利方の拠点である出石(いずし)城(兵庫県豊岡市)の攻略にも、上坂意信は戦功をあげたものと見られる。

 さらに、この年前後の10月10日に出された秀長書状によれば、但馬国の隣国である丹波国福知山において、秀長家臣の領地や俸禄を小堀正次の命に従って配分するように命じられている。上坂氏が秀吉軍(信長軍)の占領地において、年貢を収納するなどの財政を担当していたことが知られる。また、その上司として小堀正次がいたことは注目していいだろう。正次は坂田郡小堀村(小堀町)出身で遠州の父である。正次はこの後も、秀長の宿老(しゅくろう。江戸時代の家老)として、その政権中枢にいた。

 上坂氏は秀長が没した天正19年(1591)以降も大和郡山に留まった。秀長の養子秀保(ひでやす)が死去した文禄4年(1595)以後は秀吉直臣となり、大和国や紀伊国で1千石を与えられたことを示す秀吉朱印状も現存する。1千石は大名とは言えないが、秀吉家臣のなかでも大身(たいしん)と言えよう。慶長5年(1600)、大和郡山城主の増田長盛は西軍についたので、城は一時廃城となった。これを機に、上坂意信の子・正信は西上坂村に戻り帰農した。その屋敷跡は今も西上坂町に残り、土塁や堀跡が残っている。

上坂氏の屋敷跡(長浜市西上坂町)

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2024年4月16日掲載)

掲載日: 2026年07月10日