【湖北史記 其の49 】遠州流茶道を中興した辻宗範

 前回は小堀遠州の出生地の話だったが、長浜市国友町にも遠州ゆかりの文人がいる。坂田郡国友村(国友町)に生まれた辻宗範(そうはん)だ。その名は、中絶しかかっていた遠州流茶道の流儀一切を後世に伝えたことで知られる。彼は小室藩(小室町に陣屋があった)茶頭(さどう)であった冨岡友喜(ゆうき)から遠州流茶道を習い、その奥義を習得していた。

 天明8年(1788)に遠州を祖とする小室藩が廃藩になり、その流儀は途切れかけていたが、文化7年(1810)に至り小堀家第8世となった宗中(そうちゅう)に遠州流を伝授した。師匠の家に流儀を再伝授した形となったので「返し伝授」と言う。小堀遠州が創始した遠州流茶道は、この伝授がなければ現在に伝わっていなかったと見られ、宗範は現在まで伝わる遠州流茶道を中興した立役者と言える。

 その生涯と業績は、史料が乏しく謎に包まれている。尾張藩への仕官の話もあったと伝えるが、事実と確定する史料は見つかっていない。一方で、「千宗範」と名乗った時期もあり、裏千家とも関わりがあったようである。尾張藩御用窯(ごようがま)の御深井焼(おふけやき)の布泉形手水鉢(ふせんがたちょうずばち)写の水指(みずさし)が残存するが、その箱書は宗範である。また、眼の治療院として名高かった旧尾張国内の明眼院(みょうげんいん。愛知県海部(あま)郡大治(おおはる)町)に、宗範が授与した茶杓(ちゃしゃく)が残っているのも、尾張藩との関係を示すものかもしれない。現存する書跡には、尾張に知人がいたことが知られる作品もある。

 文政6年(1823)、妻が死去した66歳頃からは、外遊をやめ国友村に住居するようになったと言われる。確かに、国友町など北近江に残る宗範の書は晩年の作ばかりである。天保11年(1840)に83歳で死去した。

 宗範の痕跡は、その遠州流の書以外少ないが、坂田郡長岡村(米原市長岡)の庄屋田中家にあった「旧田中家新座敷(しんざしき)」は、天保8年(1837)4月の「辻宗範先生指図(さしず)」がともなう宗範指導の茶室として知られる。もともとは集落内にあったが、平成29年に近くの西福寺に移転し、米原市指定文化財となっている。「八十二翁 辻宗範」と落款(らっかん)がある茶室の扁額(へんがく)「燕窓窠(えんそうか)」が見つかっており、そこに記された年齢から、死去の前年の建造と考えられている。

 田中家の迎賓館として利用され、内部には四畳半の茶室があり、客座の中央に躙口(にじりぐち)を配し、その上に連子窓(れんじまど)と下地窓(したじまど)を重ねるとう遠州好みの構造となっている。井伊直弼は領内巡回のため、嘉永7年(1854)に長岡で宿泊しており、直弼やその側近である長野主膳(しゅぜん)も使用した可能性が指摘されている。湖北の江戸文化の粋(すい)として大切にしたい。

辻宗範歌碑(国友町)

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2024年3月19日掲載)

掲載日: 2026年07月10日