宮川陣屋があった宮司町の北部に小堀町がある。その集落内に、「小堀新介(しんすけ)殿屋敷跡」と刻まれた石碑が建っている。当地は「小堀遠州出生地」として長浜市指定史跡にもなっている。小堀新介正次は遠州の父親で、戦国大名浅井氏の家臣であった。その室は、浅井氏の重臣である磯野員昌(かずまさ)の娘だが、遠州が幼い時に亡くなったようだ。
小堀遠州は名を正一(まさかず)といい、江戸幕府の技術官僚として名高い。二条城二の丸庭園、南禅寺方丈南庭、金地院(こんちいん)「鶴亀の庭園」など、京都の名立たる庭園の作者とされるが、造園の指導・監督を行なったとするのが正しい。庭園は数十年でその姿を変えるので、遠州が指導したままの状態で今に残る例は少ない。その中で、遠く岡山県高梁(たかはし)市にある頼久寺(らいきゅうじ)庭園は遠州が造園指示した形が今でも残る稀有(けう)な例で、国指定名勝になっている。
その他、名古屋城天守・本丸、大坂城の天守・本丸・二の丸、二条城、江戸では江戸城二の丸や品川東海寺の普請・作事にも力を尽くした。当時は空前の城郭建築ブームであり、普請・作事に詳しい遠州は引っ張りだこだった。大阪城の大手門近くの千貫櫓(せんがんやぐら)は、遠州指導によって建造された建物が、そのまま残っている例である。近江国内では、将軍宿泊用の御殿である水口城(甲賀市)や、伊庭(いば)御殿(東近江市)の建造にも関わっている。
また、遠州流茶道の祖としても知られる。中世から続く茶道の歴史の中で、「大名茶」というジャンルを確立させた人物だ。千家の茶道が、主に町人によって培(つちか)われたのに対し、江戸時代の武家儀礼の中に茶道を取り入れていった。また、茶室よりも広間での点前(てまえ)を特徴とし、茶室にしても窓が沢山ある明るい部屋を好んだ。その心得の真髄を示す「綺麗(きれい)さび」は、高雅で貴族風の茶道趣向を表している。平成9年の遠州没後350年を機に長浜で復活した遠州流茶道は、今も小中学生への授業など、社会貢献を続けている。
小堀町周辺に残る遠州の痕跡は少ない。宮司町との堺に「ばんば堀」と呼ばれる小さな池がある。ここが、遠州が生まれた屋敷の堀であったとされる。屋敷地の石碑は、慶長7年(1602)の検地絵図にある正次屋敷を、現地に当てはめた場所に建立されている。さる3月3日、小堀町で5年ぶりに外部の関係者を招いての例祭が行なわれた。遠州霊前への献茶や、菩提寺の近江孤篷庵住職による読経が行なわれた。全国的に活躍した小堀遠州の痕跡は長浜にはわずかだが、住民は遠州の偉業を今も讃え続けている。

「小堀新介殿屋敷跡」の石碑(長浜市小堀町)
淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司
(滋賀夕刊 2024年3月5日掲載)




