【湖北史記 其の47 】最後の宮川藩主堀田正養

 前回触れた長浜市宮司町(みやしちょう)にあった宮川藩だが、江戸時代は宮川陣屋に数人の藩士をおいて、藩領を経営していた。やがて江戸幕府が崩壊、明治政府の支配がこの地に及ぶと、宮川藩は新政府に恭順の意を伝え、存続していくことなる。ただ、江戸(東京)にいた藩主と80人程の藩士たちは、領国の宮川に移住し、そこで藩政を行なうことになった。

 藩主や藩士が宮川で暮らすとなると、宮川陣屋のみでは手狭となるので、村の東方の田畑を開発して、藩主の御殿と家臣の屋敷を新設することになる。その御殿は、玄関や家老部屋などの役所や広間、さらには櫓(やぐら)もある壮大な建物であったことが、坂田郡常喜村(常喜町)の大工・宮部太兵衛(たへい)の史料から分かる。家臣の屋敷も御殿北方から東方にかけて整然と区画割して造成された。さらに、その屋敷群の東方には、彼らの軍事教練用に調練場が設けられた。現在、その跡地を示す石碑が住宅地の中に建っている。

 宮川藩は最終段階では宮川県と呼ばれ、明治4年(1871)には廃藩置県により、藩主や藩士は東京へ帰ることになる。最後の宮川藩主(明治には宮川藩知事)は堀田正養(まさやす)。秋田県由利本荘(ゆりほんじょう)市旧岩城(いわき)町にあった亀田藩岩城家の8男で、宮川藩堀田家に養子に入った人物である。正養が宮川を離れる時、主な領民を集めて「この度、東京で「御用(ごよう)」があるので、当地を離れることになったのは誠に残念だ」と述べている。近江に移住し、長く旧藩領を治めることを望んでいたようである。

 正養はその後、明治の政界で活躍する。明治11年(1878)には東京府議会議員に当選し、政治家の道を歩む。浅草区長・下谷(したや)区長・深川区長などを歴任、明治23年(1890)に国会が開設されると、貴族院議員となった。福岡県の炭鉱を支えた筑豊(ちくほう)興業鉄道の社長を務めるなど、院内きっての「鉄道族」として知られた。明治41年(1908)には第一次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣の逓信大臣にもなっている。

 長浜豊国神社の南側の道は、西に向かって鉄道で行き止まりだが、昭和57年(1982)までは蓮池(はちいけ)踏切を越え、豊公園へ直接つながっていた。中央官庁の鉄道院はここに踏切を設置することを、駅に近いという理由で、最初許可しなかった。町人たちが堀田正養に嘆願して、踏切設置が成就したという話も伝わる。市内に散在した元宮川藩の建物も多くが撤去された。宮川藩の痕跡(こんせき)は微(わず)かだが、人々の記憶には留めたい。

 

宮川藩家臣団屋敷地跡(長浜市宮司町)

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2024年2月20日掲載)

掲載日: 2026年07月03日