前回、阿波国(徳島県)の住人5人が、明治9年(1876)に西国巡礼の旅に出かけた話を書いた。その日記では、同年4月24日、観音坂を越え宮川村で泊まって、翌日は竹生島に向かっている。この宮川村は現在の宮司東町のことで、宮司西町に当たる下司(げし)村と明治7年(1874)に合併し、両村から一字とって「宮司」の村名が成立した。したがって、「ぐうじ」ではなく「みやし」と読む。
この宮川は江戸時代、一万石余の堀田氏を藩主とする宮川藩が存在し、その領国統治のための陣屋(じんや。政庁)が置かれた場所となった。江戸時代の近江国の石高(こくだか)は約80万石。その内の30万石(近江国内は28万石)が彦根藩領であったことはよく知られている。彦根のお菓子に「三十五万石」があるが、5万石は幕府からの預り米で領地としては30万石が正しい。その他に、本多氏の膳所藩6万石、加藤氏の水口藩3・5万石、これが城持(しろもち)大名だった。その他の7大名は2万石以下の小藩で、大きな屋敷を指す陣屋を政庁としていた。これを陣屋大名という。その他、大和郡山藩領などの他国の大名領、旗本領、それに総持寺などの地元寺社領によって、80万石は構成されていた。
宮川藩もその陣屋大名で、藩主の堀田氏は三代将軍の側近正盛から続く名族だが、正盛の子・正信の時、幕閣と対立し一回取り潰(つぶ)しにあった。しかし、父祖の功績が認められ小大名ながら復活を許された家系である。幕末の政治史で井伊直弼によって翻弄される老中堀田正睦(まさよし)は、この宮川藩堀田氏の分家で、下総(しもうさ)国佐倉藩(千葉県佐倉市)の藩主である。
宮川藩主は、幕閣に加わることも多い譜代大名だったので、参勤交代をしない定府(じょうふ)大名とされた。つまり、江戸にいることが常で、地元の宮川には数人の家臣を置くだけだった。その所領は地元の坂田郡のみならず、近江国内の滋賀郡・蒲生郡など6郡に散在的に存在した。とても、数人の家臣では治めることはできず、坂田郡の場合は浅井氏時代からの地侍(じざむらい)・垣見氏の手助けを得て領国を統治した。各郡とも、垣見氏のような地元代官の助力を得て、政治を行なっていたものと見られる。
その陣屋前の道は観音坂からの朽木街道と、それに南北に直交する小谷道が合わさった街道である。2つの街道は村の南で合流し、陣屋前を通過し村の北で分岐する。江戸中期の宮川村絵図を見ると、そこは「茶屋」などの商店が並ぶ町場(まちば)であった。陣屋前に広がる城(陣屋)下町としての繁栄を伝えるものは少ないが、せめて「宮川陣屋跡」の石碑前では足をとめて、江戸時代の賑わいを偲んで欲しい。

「宮川陣屋跡」の石碑(長浜市宮司町)
淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司
(滋賀夕刊 2024年2月6日掲載)




