古来、長浜市の市街地が広がる山西部から、米原市の旧山東町(山東部)に行くため、横山丘陵を越えるには、4つの経路があった。一つは前回話題にした北端の龍ヶ鼻を回る道。そして、残り三つは峠越えとなる。北から順番に、垣籠(かいごめ)町より村居田に至る「イヌカイ坂」。石田町坂下から朝日の大原観音寺前に至る観音坂。そして、鳥羽上町から菅江(すえ)に抜ける鳥羽上越えである。観音坂と鳥羽上越えは、昭和8年(1933)と大正12年(1923)にトンネルが設置された。
この内、横山丘陵の最高峰312㍍の少し南の鞍部(あんぶ)を越えるのが観音坂である。平成28年の新トンネル建設で、坂下側の登り口付近はかなり破壊されたが、坂下集落上部の駐車場を経由して、なんとか旧道を辿(たど)り峠の地蔵まで至ることができる。峠から北に向かえば横山城があり、峠を越えて朝日側に降りる道も残っている。
峠の地蔵には、信者の方が設置した説明板があり、こんな昔話が書いてある。この地蔵は朽木の殿様が峠を無事に通れるよう祈願するため、家来に命じて安置したものである。峠道を通る道は朽木街道と呼ばれ、その最大の難所がこの峠だった。当地には追剥(おいはぎ)が出て皆が困っていたが、地蔵安置以来は、悪党が出ると小坊主が現れ、旅人を助けた。また、足や腰が痛むお婆さんが七日お参りしたら、すっかり良くなったという話も載せる。
朽木氏は湖西高島郡の朽木谷に本拠をおく旗本であったが、大名一歩手前の千石台の所領を持つ交代寄合(こうたいよりあい)と呼ばれ、参勤交代を行なった。明確な記録はないが、湖西から船で長浜に至り、黒壁前の交差点から東へ向かい八幡東・宮川(現在の宮司町)・石田を経て、観音坂を越え、春照に出て脇往還を関ヶ原に向かう経路であった。黒壁前の道標には、「たにくみ道」とあるが、これは岐阜県揖斐川町にある谷汲山華厳寺(たにぐみさんけごんじ)への道の意味で、近江国内については朽木街道と同じ経路を指す。
ただ、不思議なのはこの経路を辿ったという旅人の日記を見ないことである。その中で、長浜城歴史博物館が所蔵する「西国三十三所巡礼道中日記」は、この街道を使った旅人の日記として現在私が知る唯一のもの。阿波国撫養(むや)(徳島県鳴門市)の住人である梅雪ら5人が、明治9年(1876)3月から5月、西国巡礼を行なった時の記録だ。梅雪らは順番通り霊場を回らず、美濃から近江に入って竹生島を詣(もうで)でているが、4月24日には華厳寺に参拝して、上記の方向とは逆に観音坂を越え宮川で泊まって、翌日は竹生島に向かっている。
いつの日か、朽木の殿様が通ったという記録を確認したいと夢見ている。

観音坂から見た石田町坂下の集落
淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司
(滋賀夕刊 2024年1月23日掲載)




