【湖北史記 其の43 】大坂の陣と国友鉄砲鍛冶

 12月17日に最終回を迎えた大河ドラマ『どうする家康』だが、終盤の「大坂の陣」における狂気に満ちた淀殿の演技が印象的だった。淀殿は小谷城生まれで、妹の初(はつ)も大坂の陣で仲介役として活躍する。さらに、最後まで家康との戦いを避けようとしていた豊臣家の家老・片桐且元も須賀谷町の出身とされる。大坂で起きた大合戦であるが、意外と長浜との関りも深い。さらに、国友鉄砲鍛冶の活躍がある。

 大河ドラマでも描かれたように、大坂冬・夏の陣では、鉄砲や大砲などの火器の威力がその勝敗を分けたと言える。冬の陣では、家康が牧野清兵衛・稲富重次・中井正清を呼び、砲術の精鋭10数人を集めて、城内の櫓を撃ち破ることを命じた。3人は大坂城北に当たる備前島の片桐且元の陣所から、大筒(おおづつ)100挺を揃えて本丸を攻撃した。この時、片桐は暗殺を恐れて城を脱出、家康方として働いていた。片桐は当然城内に詳しいことから、淀殿御座所(ござしょ)を割り出しての攻撃であったという。

 徳川方の砲弾は淀殿がいた櫓を倒壊させ、その侍女7・8人が建物の下敷きとなり圧死した。城内の状況は地獄の沙汰で、淀殿は早速、わが子秀頼に一刻も早い和睦を頼んだという。この攻城戦を描いた軍記物の記述は多彩だが、使われた火器がどこで製作されたかは記述がない。唯一、『譜牒余録(ふちょうよろく)』という本には、国友鉄砲鍛冶の年寄(統括者)4人が陣所に詰め、鉄砲の掃除を行ない、配下の鍛冶たちも鉄砲の製作にあたったとする。陣所での鉄砲の修理・調整、製作に国友鍛冶が関与したとすれば、使われていた鉄砲・大砲の多くが国友製だったと考えることが可能だろう。

 大坂の陣を前にして、徳川家や江戸幕府から国友へ、大量の鉄砲・大砲の注文があったことは確実だが、その具体的な数量はつかめない。国友鉄砲研究を地元で行なっていた湯次行孝氏は、その総数を3匁(もんめ)玉(口径12㍉)から1貫目(かんめ)玉(84㍉)まで600挺以上と推測されたが、そう大袈裟な数字ではないだろう。

 他方、堺市博物館が所蔵する「慶長大火縄銃」は、大坂の陣用の国友製鉄砲として唯一の確実な遺品である。それは、慶長15年(1610)に、国友甚左衛門が製作し、銃床(じゅうしょう)を堺鍛冶が担当したことが銘(めい)から知られる。また、家康から国友鍛冶たちへ下賜された3領の小袖が現存している。これらは、鉄砲鍛冶の年寄の一人・徳左衛門家に伝来したもので、家康から鉄砲注文を受けた時と、大坂冬の陣後に下賜されたものとされる。この大坂の陣に向けての徳川家康からの大量発注によって、国友鉄砲鍛冶の繁栄は頂点に達した。

 

大坂城天守閣前での国友鉄砲研究会演武(令和2年11月22日)

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2023年12月26日掲載)

掲載日: 2026年06月26日