【湖北史記 其の41 】浅井郡朝日郷の由来

 11月25日に長浜市立朝日小学校の創立150周年記念式典があり、小学校の背後に聳(そび)える山本山の歴史の話をした。内容は山本山城主の山本義経と浅井氏家臣の阿閉氏のことであったが、ここでは小学校の校名となっている「朝日」の地名の由来を考えてみよう。

 「朝日」の語源は、瑞祥(ずいしょう)地名の一種である。瑞祥地名とは、新たに開発された土地に目出度い地名や美しい地名をつけたもの。現在で言えば「自由が丘」とか「緑が台」とかがこの類に当たる。「朝日」は「日が昇る場所」を意味し非常に目出度いが、湖北には明治12年(1879)に坂田郡上夫馬(かみぶま)村と観音寺村が合併して「朝日」と命名された例がある。現在の米原市朝日である。

 浅井郡の「朝日」の地名は、平安時代中期に編まれた辞典『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』に、同郡の13郷の一つとして確認できる郷名である。この本に載る郷名は律令制の時代からあると見られ、歴史学では「和名抄郷」と呼ばれる。つまり、飛鳥時代からある瑞祥地名で、湖北の数多(あまた)ある地名の中でも、最も由緒ある地名の一つと言えよう。

 中世にも「朝日郷」が確認できる。この場合の「郷」は、荘園の「荘」と同意義であると見ていい。国衙(こくが。古代の国の役所)の所領から発展した荘園は、伊香郡富永荘(とみながのしょう)のように「荘」ではなく、坂田郡上坂郷(こうさかごう)のように「郷」と呼ばれた。この「朝日郷」には室町幕府の将軍親衛隊である奉公衆(ほうこうしゅう)・斎藤朝日氏の本拠があった。室町将軍の行列等に付き従った奉公衆のリストが数点残るが、そこには5番組中の3番組の中に、斎藤朝日氏の「近江守」・「三郎」・「孫左衛門」等の名が見える。また、「竹生島文書」にも島内の紛争処理を命じられた幕府の使者として、同じ奉公衆の熊谷下野守(しもつけのかみ)と共に朝日近江守の名が挙がっている。

 その後、戦国時代や江戸時代には、「朝日」の地名が前面に出ることはないが、天保改革で有名な老中水野忠邦の末裔である水野氏が、明治3年(1870)に東北の山形から浅井郡内に領地を移され朝日山藩となった。陣屋を今の小学校の敷地においたが、翌年には廃藩置県で長浜県に吸収されてしまう。

 やがて、町村制の施行により、明治22年(1889)に「朝日村」が成立し、昭和31年(1956)に湖北町に合併するまで存続した。由緒ある「朝日」の地名は、明治になり行政地名として復活したのである。この中で、明治6年(1873)に培達(ばいたつ)学校として創立した山本山麓の小学校は、明治25年(1892)から「朝日」を冠することになる。未来永劫にわたり、由緒ある「朝日」の地名を大切して欲しい。

 

長浜市立朝日小学校正門(11月25日、150周年記念式典の日に撮影)

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2023年11月28日掲載)

掲載日: 2026年06月19日