【湖北史記 其の39 】国宝「菅浦文書」の菅浦絵図

 26日付の本紙でも紹介されたように、菅浦郷土資料館(長浜市西浅井町菅浦)での特別企画展で、国宝「菅浦文書」が来月12日まで70年ぶりに里帰り展示される。通常、国宝を地域の郷土資料館で公開することは出来ないが、所有者(須賀神社・菅浦自治会)が主催して公開する「所有者公開」という制度を利用しての展示である。現地で史料を観られる滅多にない展示なので、この機会を逃さず見学して頂きたい。

 この特別企画展で展観されるのは2点。その内の1点である「菅浦与大浦下庄堺絵図(すがうらとおおうらしものしょうさかいえず)」を紹介しよう。俗に「菅浦絵図」と称されるが、縦91・5㌢、横62・3㌢の掛軸(かけじく)装として伝わる。中世村落を描いた絵図として全国的にも著名であり、40点余り残っているとされる中世の荘園(しょうえん)絵図としても代表的な作品の一つである。

 鎌倉時代後期から室町時代中期まで2世紀にわたって繰り広げられた菅浦と大浦(長浜市西浅井町大浦)との日指(ひざし)・諸河(もろかわ)の田地をめぐる境界争いに当って作成された。これらの田地は江戸時代の面積で17町程(約17㌶)あり菅浦と大浦の中間にあった。絵図には両村の境界が朱で引かれた葛籠尾崎(つづらおざき)、それに大浦下庄の区域や、西に位置する海津大崎を図上部に描き、菅浦の領家(領主)である竹生島を図下部に描いている。

 従来から本図の裏に記される「乾元(けんげん)々年八月十七日」の墨書や関連文書から、堺争いが決着しないため、院宣(いんぜん。上皇の命令)を受けた中央の官使(かんし)が派遣され、その結果を院に報告した絵図と解されてきた。しかし、近年になって、正安4年(1302)は、11月21日に改元され、乾元元年になることから、「乾元々年八月十七日」の年月日は、日本史上存在しない事実などから、本図が後代に遡(さかのぼ)って作成されたものとされている。ただし、その成立は南北朝時代(室町前期)を下るものではない。

 また、朱線による境界は、官使による裁定結果を表わすものではなく、菅浦の一方的な主張が記されているとされる。絵図下部に竹生島を大きく描いているのは、菅浦を支持する領家としての姿を強調し、菅浦が訴訟を有利に展開する視覚的効果を狙ったものと考えられる。

 さらに、大浦がこの争論で「日指・諸河の帰属」のみを問題視していたのに対し、菅浦が日指・諸河の田地はもちろん、集落や山野を含めた菅浦の「村落領域の形成」を目指していたことも明らかにされている。大字(おおあざ)=現在の自治会の領域は、江戸時代の「村切(むらぎ)り」や山論(さんろん)によって徐々に定まっていくが、すでに室町時代前期に村の領域を意識していた菅浦の先進性を示す史料として注目される。

 

諸河の田地(寿福滋氏撮影)

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2023年10月31日掲載)

掲載日: 2026年06月12日