小谷城には城郭と共に、城下町が存在した。町場(まちば)の場所は、現在の湖北町伊部と小谷郡上(ぐじょう)町の集落や、その中間に当たる清水谷南の田地周辺と考えられている。
「菅浦文書」に残る永禄9年(1566)の浅井長政撰銭(えりぜに)禁止令には、小谷城下に商人が居住する町があったことが確認される。一方『信長公記』元亀元年(1570)6月21日の項では、信長軍が「浅井居城小谷へ取り寄せ、…町を焼き払うふ」とあり、城下町の存在が知られる。一方、平成元年に城下「東本町」の一部が発掘調査され、掘立柱(ほったてばしら)建物の遺構を確認している。また、焼けた鎧(よろい)の小札(こざね)、刀の一部、火を受けた陶磁器も出土しており、信長の兵火で焼失した城下町の遺構と推定できる。
現在も、清水谷南と伊部集落の間には、東本町・西本町・本町・呉服町・大谷市場・横町など、町場であったことを示す通称地名が残っており、この地には南北に2本の街路が通る町の中心部があったことが想定される。さらに、地元に伝来する絵図によれば、伊部の南端と、郡上の北端には門が設けられ、城下町が外敵から守られていたこと、町家に交じって大橋氏や雨森氏などの家臣屋敷が存在したことも知られる。この町家と家臣屋敷の混在は、近世城下町の長浜にはない中世城下町の特徴の一つである。
最近、城下町の東、小谷寺の谷南や、須賀谷の南に大きな沼を想定し、城下南部の「堀田(ほりだ)」に、その沼から水路が入っていたとする北村圭弘(よしひろ)氏の説が出されている。城下町である限り、舟運を使っての流通拠点がどこかにあったと見られる。この「堀田」からの水路は、田川に繋がる。さらに、伊部の南部から発する小谷道(後の中山道番場宿につながる中世の北国街道)が田川を渡る箇所は「船場辻(せんばのつじ)」と呼ばれ小谷城の港があった場所と伝える。
姉川や高時川は水深が浅く、舟運に関する伝承がほとんどないのに対し、田川は川底が粘土層で水が漏れにくく、川の屈曲から水が溜まり緩(ゆる)く流れるので、水運に適していたとされる。明治5年(1872)の国友村の村明細帳(村勢要覧)によると、年貢は自村を流れる姉川ではなく、田川の港がある三川(三川町)まで「津出(つだ)し」したと記されている。田川を介して小谷城は琵琶湖と繋がっていた。
小谷城下町は、天正9年(1581)2月10日の羽柴秀勝判物(はんもつ)によって、「本能寺の変」の前年には、長浜への移転を完了したことが分かる。城下町の機能の一部は北国脇往還の伊部宿・郡上宿(両者を一宿とみなし小谷宿とも言われる)に引き継がれた。
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船場辻跡(背後の高まりが田川)
淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司
(滋賀夕刊 2023年10月17日掲載)




