小谷落城まで20日余りと迫った天正元年(1573)の8月8日、山本山城主の阿閉貞征(あつじさだゆき)が織田方に寝返り同城を開城した。さらに10日、浅井久政が最近小谷山頂の大嶽(おおづく)の下に築いたという焼尾(やけお)を守備していた浅見対馬守(つしまのかみ)も寝返った。浅見氏は尾上城(湖北町尾上)を本拠とするが、12日には北山田(小谷上山田町)まで迫っていた信長軍を引き入れた。すぐさま、朝倉軍が守っていた大嶽も陥落する。小谷城は正面の清水谷側のみでなく、北側に当たる山田の谷からも攻撃されることになり、落城に至る過程を速めた。
この焼尾開城の経緯は、『信長公記』によるが、焼尾が小谷攻防戦の中、新たに築造された曲輪(くるわ)であることは間違いない。しかし、その場所の特定に至っていない現状がある。昭和2年に刊行された『東浅井郡志』第2巻に付属する「小谷城趾実測地図」には、大嶽から上山田の方角に伸びる尾根上に、麓側から「一ノ丸」〜「三ノ丸」と、「焼尾丸」を図示する。確かに古地図には、その付近に「ヤケ尾」の地名は確認できる。
さらに、数種存在する江戸時代の「小谷城絵図」にも、大嶽から上山田に行く峰の途中に焼尾の記載がある。しかし、長浜市歴史遺産課が、令和2年に発刊した『史跡小谷城跡総合調査報告書』に載る赤色(せきしょく)立体地図(空中から地面にレーダーを当て地形の凹凸を判読する図面)を見ても、当該地周辺に曲輪らしき遺構は確認できない。
一つの案に過ぎないが、昭和45年に初めて城郭遺構であることが確認された月所丸(げっしょまる)が、この焼尾に該当すると考えられないだろか。地元で焼尾と称する所から、大分東にずれるが、大嶽の東、六坊の北にあり、全長約180メートルに及ぶ2つの削平地を中心に構成される。いずれの削平地も、東側に土塁を配し、東側の削平地にはコの字型の土塁が見事に残り、さらに東には二重堀切(ほりきり)と、約50メートルの先にも堀切を備える。西側の削平地には8条の竪堀(たてぼり)が縦列する畝(うね)状竪堀群があり、山田方面へつながる「つづら折れ」の道が現存する。
この月所丸は、小谷城本丸・広間などの主要部よりは発達した城郭構造を持っており、浅井久政が落城前に築造させたという、文献上の焼尾の歴史に合致する。月所丸の発見について、小谷城址保勝会の事務局も務めた中村一郎氏は、源正寺尾根の地名から月所丸と名づけたと記す。中村氏も記すように、この曲輪の役割は小谷城北側からの攻撃に、大嶽や六坊(ろくぼう)を守ることにある。その機能は『信長公記』が記す焼尾の役割と同じであり、月所丸を文献上の焼尾の遺構と仮定してみたくなる。

月所丸主郭のコの字型土塁
淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司
(滋賀夕刊 2023年10月3日掲載)




