【湖北史記 其の36 】浅井長政最期の地・小谷城赤尾屋敷

 小谷城の本丸の東側一段下の腰曲輪(こしぐるわ)を、通常「赤尾屋敷」と呼び、天正元年(1573)に浅井長政が自刃(じじん)した場所と言われている。赤尾氏は長浜市木之本町赤尾の出自で、長政時代の当主は美作守(みまさかのかみ)清綱で、『嶋記録』などでは海北(かいほう)善右衛門や雨森弥兵衛と共に、「小谷三人衆」と言われ、浅井氏の宿老(しゅくろう。江戸時代の家老)であったとされている。

 この「赤尾屋敷」には現在も「浅井長政公自刃之地」と記された石碑が建ち、「志納箱」も置かれ献花も絶えない。そこから東側下方にさらに二段の腰曲輪があり、石碑が建つ曲輪の岸には36㍍に渡り石垣も存在する。曲輪の場所は小谷城主要部に当たり、他の長政家臣の屋敷が遠藤氏や三田村氏のように清水谷にあったのに対し、中枢の位置を占める。これは、赤尾氏が家臣団内で群を抜いた存在であったことを示す。確かに、赤尾清綱が長政の名代(みょうだい)として文書を出す例があり、この点からも屋敷の場所は納得できる。

 では、小谷落城に関する記録に長政自刃はどう書かれているのだろう。浅井氏側の史料で、小谷落城について触れるのは、先も引用した『嶋記録』のみである。この本は、坂田郡飯村(いむら)(米原市飯)の浅井氏家臣嶋氏の年代記でその信憑性(しんぴょうせい)は高いと言われる。そこでは、長政は落城寸前の段階で開城を決断したが、城内の高い所に上がり見渡すと、赤尾清綱と浅井石見(いわみ)が生け捕られたのを知り、家(屋敷)に入って切腹したとある。また、信長の最も信頼できる伝記『信長公記(しんちょうこうき)』には、長政と清綱が同時に討ち取られたとしか記していない。

 一方、江戸時代に作成された家康の伝記『武徳編年集成』や、信長の伝記『総見記(そうけんき)』、それに地元で多く作成された小谷城絵図には、自刃の場所として「赤尾屋敷」が記される。ただ、先に示した同時代編纂(へんさん)で信頼できる史料には、長政と清綱が共に自刃したとは記しても、長政が「赤尾屋敷」に籠り最期を迎えたという記述はない。

 我々としては、長政がこの地で自刃したのが事実だから後世の記録が残ったと考えたい。しかし、逆に赤尾清綱が長政の筆頭宿老であったことが広く知ら知られていて、だったら本丸の近くに屋敷があったという推察が、江戸時代に生まれたことも考えられる。もちろん、前者を信じたい所だが、後者の理解なら「赤尾屋敷」は単なる本丸の腰曲輪の一つで、屋敷跡ではないと理解することも出来る。

 歴史学は時折、歴史の「ロマン」を打ち砕く。史実と伝承、その区別は明確にしなければならない。長政の自刃場所は不明という結論も学術上はあり得るのである。

小谷城赤尾屋敷跡

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2023年9月19日掲載)

掲載日: 2026年06月05日