滋賀県長浜市にある小谷(おだに)城は、戦国大名浅井三代(亮政(すけまさ)・久政・長政)にわたる居城である。当初の小谷城は現在知られる本丸・広間がある主要部ではなく、小谷山の頂上495㍍の大嶽(おおづく)であった可能性が高い。長浜市は令和2年(2020)3月に小谷城について、これまでの発掘成果や文献調査を纏(まと)めた『総合調査報告書』を発刊し、同城に曲輪(くるわ)総数1525、土塁総数31、竪堀(たてぼり)・堀切(ほりきり)総数40を確認したと記している。
この膨大なの曲輪数等から、全国的見ても群を抜いて巨大な中世城郭であったと言えよう。なお、小谷城跡は昭和12年(1937)に国指定の史跡となり、平成7年(1995)には麓の清水谷(きよみずだに)が追加指定を受けている。小谷城の山上の遺構は、山頂に大嶽があり、そこから伸びる東の谷に山王丸・京極丸・本丸・広間などの主要部が並ぶ。大嶽からの西の尾根には福寿丸・山崎丸があり、これらの曲輪に囲まれるように清水谷があった。
戦国時代の山城は、山上に防御施設としての山城と、麓に居住施設としての居館という二元構造となっていたが、小谷城の場合も例外ではない。大嶽から伸びる二つの尾根の曲輪が防御施設となる。この内、広間は小谷城の中で最も広大な曲輪で、曲輪全体から礎石建物が見つかっており、その名の通り巨大な御殿が構えられていた。また、昭和45年(1970)から同50年(1975)にかけて行われた山上の遺構の調査においては、約3万7000点におよぶ膨大な遺物が出土しており、素焼きの土師器(はじき)皿や行火(ばんどこ)などの生活用具も出土している。
小谷城の居住施設が、山下の清水谷(小谷城戦国歴史資料館がある谷)である。その発掘調査は、昭和53年(1978)から平成30年(2018)まで行なわれたが、谷口において巨大な堀切、家臣団屋敷の区画、長浜に移された知善院の小谷時代の遺構が見つかっている。さらに、調査最終年度には最奥の浅井氏居館と推定される「御屋敷」において、側面を石積みした溝や、建物の柱穴が確認され、確実に生活の跡が残されていた。遺物の量も約3万7000点と山上と同数が出土している。
城郭生活で常用した陶磁器の出土数が広間などの山上が全体の4%なのに対して、山下の清水谷は24%に達している。これは浅井氏一族の日常生活の場は清水谷であったが、信長との戦闘が激化するなかで、山上での生活に移行せざるを得なくなった状況を示すと見られる。元亀3年(1572)以降は、清水谷での戦闘が記録されている。長政正室の市や三姉妹の居所も、山下から山上に移ったと考えていいだろう。

平成30年12月に行なわれた清水谷「御屋敷」跡発掘の現地説明会
淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司
(滋賀夕刊 2023年9月7日掲載)




