長浜城の歴史は約40年間とみてよい。この間に、現在の博物館のような天守(てんしゅ)が存在したという確実な証拠はあるのだろうか。元禄9年(1696)8月17日に、長浜町年寄が彦根藩に提出した町絵図には、「本丸大堀」の西に「殿主跡(でんすあと)」として長方形の敷地を囲い、「東西十二間」・「南北十間」と記す。21・6㍍×18・0㍍の区画となるが、もちろん「殿主」は天守と同意なので、やはり長浜城には天守があったと確認できる。
現在、豊公園にある長浜城歴史博物館のすぐ西北に、同館が建っている岡よりやや低い岡があり、そこに豊臣秀吉像と「長浜城天守閣跡」と記された石碑が建っている。ここが、絵図の「殿主跡」と見られる。つまり、戦国時代の長浜城天守台があった場所である。ただ、湖周道路整備にあたって、この岡は一部道路敷(しき)となり削られ、現在道路側から見ると天守台の断面が石積み状に見える。
この長浜城天守について、秀吉が語っている文書(もんじょ)が残っている。正月23日付け(年号なし)の長浜町人宛の羽柴秀吉朱印状(一般財団法人 下郷共済会蔵)である。長浜城の天守を壊するため、家臣の石川光政と生駒七郎右衛門尉(じょう)を派遣するので、町人も両人の指示に従い工事に協力して欲しいとの内容である。実は、文書の原文は「天守壊候」と書いてある。以前はこれを「天守壊(こわ)われ候」と読んでいたが、「天守壊(こわ)し候」と読むべきなのである。もし「天守壊われ候」と読むなら「天守被壊候」と書いたはずだ。
これまで「天守壊われ候」と解されてきたので、天正13年(1585)11月29日に起きた天正地震によって被害を受けた天守の後始末に関する文書と理解されてきた。つまり、朱印状は天正14年正月23日のものとなる。この大地震によって長浜城の御殿が倒壊した事実があるので、天守倒壊もあり得る話である。
しかし、この朱印状には秀吉の朱印が押されていること、さらに「秀吉」の署名があることから、文書形式上は天正13年正月23日のものと断定できる。秀吉が花押(かおう)に代わって朱印を使用するのは天正12年月3月から、「秀吉」の署名を記さず朱印を押したのみの朱印状を出すようになるのが、天正13年閏8月以降だからである。この時期、秀吉は領国内の武装解除の為、不要な城郭の破壊を進めていた。その一環として、当時城主がいなかった長浜城の天守破壊を命じたのである。
秀吉時代の長浜城に天守が存在したことは、皮肉にも秀吉の破壊命令によって証明される。天守が何層であったか、現在の天守のように望楼型であったかなどは史料がなく不明である。

長浜城天守台の断面
淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司
(滋賀夕刊 2023年8月22日掲載)




