令和元年8月9日、長浜市歴史遺産課は、同市指定遺跡となっている長浜城跡の豊公園から、豊臣期の石垣を発掘したと発表した。この発掘は、豊公園再整備にともなう試掘調査の一環で、九ヶ所の発掘を行なっていた一ヶ所から出土したものであった。場所は豊公荘北、千鳥破風(ちどりはふ)が4面の屋根にのる東屋(あずまや)の北西に当たる場所で、発掘範囲は南北2㍍・東西5㍍、地表下約1㍍の遺構であった。
この遺構から4㍍〜5㍍の長さで並ぶ石列が発見された。石は東西に7石、東端で南に折れているのが確認され、一石の一辺の大きさは80㌢から50㌢大だった。周辺には「栗石(くりいし)」と言われる裏込め用の小石が散乱しており、おそらく高く積み上げられた石垣の根石(ねいし)部分で、上部は彦根築城に持ち去られた可能性が高い。
出土した石列の石は、全体に江戸時代のそれよりは小ぶりで、かつ大きさが不揃いの面があること、矢穴(やあな)技法(楔(くさび)を使用して石材を割る技法)が使われていないこと、などから長浜城40年の歴史の中でも、天正元年(1573)から築城を開始した初代城主の秀吉段階か、天正13年(1585)からの第三代城主の山内一豊段階の石垣の一部と推定された。
私は、一豊入城に当たり、本丸・二ノ丸付近は、使用しなかったと考えている。秀吉の領地高は12万石と言われるが、一豊の石高はわずか2万石である。この石高であれば、大規模な城郭を維持することが出来ず、三ノ丸に御殿を置くのみだったと考えている。その城主御殿の場所は「伊右衛門屋敷」との地名が残る、駅前の「サーパス長浜豊公園」付近とも思われる。「伊右衛門」は一豊の通称名であった。
令和元年の発掘は、長浜城遺跡の第313次調査であったが、長浜城の発掘で、石列が発見されたのは、今回が初めてではない。昭和44年の豊公園整備で行なわれた第1次調査でも、現在の公園管理事務所のすぐ南側で、東西25㍍にわたり石列が確認された。この石列は西端から5㍍の所で北へ折れ、さらに東に20㍍続く形であった。この折れは横矢(よこや)掛かりと言って、石垣を登る敵を側面から攻撃するための仕掛けである。石の大きさは令和元年発掘の石より大きく一辺1㍍以上あるので、慶長11年(1606)に、第4代城主の内藤信成が入城した際に改築された石垣ではないかと考えられる。
長浜城の遺構は、江戸時代の初めに取り壊されたので殆(ほとん)ど何も残らない。残っているものと言えば地下の遺構のみであるが、令和発掘の石列は、初代城主の秀吉に触れられる遺跡発見として貴重なものであった。
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令和元年に発掘された長浜城本丸石垣根石(東から撮影)
淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司
(滋賀夕刊 2023年8月7日掲載)




