【湖北史記 其の32 】長浜城大手門跡と斜めの敷地境界

 秀吉が築城した長浜城は、現在の豊公園に本丸(長浜城歴史博物館周辺)・二ノ丸(テニスコート周辺)があり、湖周道路に沿った内堀の外側(東と北)に三ノ丸があった。三ノ丸は現在の長浜駅や殿町周辺に広がっており、「えきまちテラス長浜」東側の米川と、それを北上させた水路(「花玄」まで続く)が外堀であった。

 大手通りは現在「大手門通り」と呼ばれるが、秀吉築城当時からの城下町のメインストリートである。この大手通りは外堀を渡って城内に入るが、その外堀は壽山(ことぶきざん)の山蔵西の道路西端から、「鳥新」の敷地の途中まであり、元禄9年(1696)の町絵図によれば、幅15間(けん)(約27㍍)と記されている。この「鳥新」敷地内の堀が終わった場所、つまり「お旅所」の南に、大手門が存在したと考えられる。堀には当然、大手門につながる板橋が架けられていた。現在、「鳥新」の店前には「長浜城大手門跡」と記された石碑が建っている。

 長浜の大手門は、多くの城郭がそうだったように枡形(ますがた)をしていた。枡形とは城下町に対して高麗門(こうらいもん)を配し、その門を潜(くぐ)った場所を、石垣や櫓(やぐら)・塀(へい)で囲い四角い空間を作る。この空間は石垣等で行き止まり。城内へは左へ90度折れ、楼門(ろうもん。二階がある門)を潜って入る必要があった。枡形は攻城軍を枡内に滞留させ、四方から攻撃する防御空間であると共に、籠城軍が城外へ撃って出る際の出撃拠点ともなった。

 この枡形が廃城を迎え、門や櫓・塀が取り壊されると、90度曲がった道だけが残る。さらに時が経つと、三角形の二辺より、一辺を行く距離が短いので、2点を結んだ斜めの道に改変されていく。これが、長浜城大手門跡の現状で、「鳥新」と北の駐車場の敷地境界が示す斜めの線が、枡形の三角形の一辺を示す痕跡(こんせき)である。現存する枡形は、彦根城の「いろは松」から彦根城博物館に至る経路に設けられた佐和口御門(さわぐちごもん)を挙げるのが良いだろう。

 長浜の大手町から、大手枡形で二つの門を通過して城内に入ると、道は再び90度右に折れ、天守を正面に見据える形となる。そのまま、いくつかの屈折を経て、大手門からの道は本丸に到達する。

 単なる斜めの敷地境界だが、長浜城の大手門跡地であったことを意識すると、見えない歴史が見えてくる。地名以外にも、わずかな土地の痕跡から、秀吉時代に迫れるのが、長浜城下町の魅力でもある。なぜこの道の先は幅が広がるのか?どうして道はここで曲がるのか?古絵図を手に取り、都市計画について秀吉と対話しながら「まち歩き」をする醍醐味を、多くの人に味わってもらいたい。

長浜城大手門跡の斜めの敷地境界

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2023年7月25日掲載)

掲載日: 2026年05月29日